直接瞑想

直接瞑想とは、全瞑想の本当の目的である「本来の自己」を直接認識し、育てる技術である。

直接瞑想以外の瞑想は、ほぼ全て間接瞑想と言えるだろう。

 

間接瞑想とは、瞑想の本質を直接育てるのではなく、別の対象へ向かう事によって間接的に本当の瞑想が起こる事を期待する手段である。

世の殆どの瞑想は間接瞑想と言っていいだろう。即ち、ある対象を心に思い浮かべたり、ある言葉や行為を繰り返したり、ある物事に集中したり、ある対象を観察したりといった瞑想である。

実はこれらの瞑想は本当の瞑想ではなく、本当の瞑想が起きた時の状態を「模倣」している事が殆どである。

 

例えば、「他人を思い浮かべて、その人へ慈愛を送りなさい」という瞑想がある。

人が本当の瞑想状態になり、それが日常においても維持出来る様になれば、他人への慈愛は自然に湧いてくるものである。「他人を愛そう」などという意図は一切無く、ただ瞑想によって顕になった「本当の自己」に自分を預けている結果起こったものである。

 

本当の瞑想の実行→本当の自己の現れ・成長→他人への慈愛の自然な沸き起こり、というのが本来のルートであるが、間接瞑想はいきなり慈愛の模倣から始める。即ち結果から原因を引き起こそうとしているのであり、当然そこには無理がある。

 

「100mを10秒で走れる体を手に入れる為に、100mを10秒で走りましょう」と言っているのと本質的に変わりはない。100mを10秒で走る為にまずするべき事は肉体のトレーニングである。闇雲に走ってばかりいたら成績はすぐ頭打ちになる。もし望み通りの走力を得たとしても、その肉体は100m走に特化されて特定の筋肉だけが強化され、他の競技には応用できない体になるだろう。

この間接瞑想においても、本当の慈愛が無いにも関わらず慈愛を沸き起こさせるのだから、そこには必ず葛藤が生まれる。

 

色々な瞑想法にチャレンジしても続かない大きな理由はここにある。

間接瞑想は、現状の自分に無い特質を仮定する。それは当然現状の自分と対立し、抵抗を生み出す。一見簡単に見える瞑想法でも、実行してみると予想外に大きな葛藤が起こり3日と続かない事が多いのはその為だ。

瞑想自体が無理な「模倣」であり、実行する事自体が大きなストレスなのだ。

 

もしその瞑想が成功して、常に慈愛が湧き出る様になったとしても、慈愛以外の特質は発達せず、偏った人格になってしまう可能性がある。

愛に溢れたとても良い人が狂信的な集団の一員になってしまう事は良くあるが、この人は慈愛の能力のみを発達させ、人間に必要とされる他の要素、即ち冷静な知性や客観的な判断力が不足している場合が多い。この様な人々は、自分が何をやっているかの自覚も無しに、狂信的教団指導者の忠実な部下として働かされてしまう事も多い。

これとは逆に、知性のみが発達して他人に対する愛情が大きく欠けている場合もある。偏った発達は総合的に見ると弊害の方が大きくなるケースは良くある事である。

 

直接瞑想においては、最初から瞑想の本質のみに注意を向け、本質を直接成長させる。

100m走の例で言えば、筋力・スピード・バランス・テクニック等の総合的な肉体のトレーニングをきちんと実行し、結果として100mを10秒で走る「事も出来る」体を作るという事だ。そしてその体は100m走ばかりでなく、あらゆる競技に対応出来る体でもある。

 

直接瞑想において自己の本質が成長すれば、自然に湧いてくる慈愛を止める事は出来ない。

慈愛のみでなく、無意識な雑思考の減少による脳の休息と静寂、それに伴う客観的知性の活性化、冷静な判断力、心と体の芯からのリラックス、不安の解消、外的要因に関係なく自己から湧き出る幸福感、肉体の自然な調整力の発現、効果的な肉体の使い方の会得等々、間接瞑想で「模倣」される様々な特質が自然と身に付いている。

 さらに、直接瞑想は瞑想であると同時に人間として生まれ落ちた「本当の目的」を達成する手段でもある。

 

人々はなぜ瞑想するのだろうか?

現代においては瞑想に対する一般的関心がかつて無い程高まっており、様々な瞑想法が紹介されている。

その謳い文句は、瞑想をすれば様々な良い特質が育まれるという事である。即ち、「心配事が無くなる」「芯からリラックス出来る」「人間関係が良くなる」「ストレスに強くなる」「冷静な判断ができ、優秀な社会人になれる」「生きていくのに希望が持てる様になる」等々。そして瞑想に惹かれる人たちもそれらの特質を身につけようとして本を開き、ネットを飛び回る事になる。

 しかし、これらの煌びやかな謳い文句の数々は、瞑想の「目的」ではなく、瞑想によって「本来の自己」を育てた結果得られる「副産物」なのだ。間接瞑想と同じく、ここでも本末転倒が起こっている。

 

間接瞑想も、確かにある程度の効果はある。その人にピタリと合った技法なら、かなりの効果も期待出来る。

しかし、その技法を深めて行くにつれ、ある時点で行き詰りが生まれて来る。技法自体がそれ以上進む事への障害となるのだ。

 

例えば、有名な間接瞑想の手法として「自分の呼吸に注意を払う」というものがある。確かにこの瞑想は効果があり、意識を「今」に引き戻す良い方法ではある。

しかしこの瞑想の本当の目的は呼吸に注意を払う事ではなく、「呼吸に注意を払っているのは誰か?」を突き留める事なのだ。その「誰か」を見つけさえすれば、もう呼吸への集中は必要無い。

だがこの瞑想を指導する際にその事が語られる事は殆どなく、ただ「呼吸に注意を払う」という事のみが指導される。それでこの技法の信奉者たちは延々と呼吸に注意を払い続け、その結果本当の自由は得られず、日常からの一時的乖離の手段として呼吸という別次元への出入りを繰り返す事になる。

この呼吸を使った技法はある時点で捨て去られるべきものであり、「呼吸の奴隷」から解放されて自由な自己として羽ばたく事が最終の目的となるべきなのだ。

 

そしてこの間接瞑想も他と同じく、本当の瞑想が起きた状態の「模倣」である。

本当の瞑想が起きた時は、思考が一斉に静まり、頭の中を静寂が支配し、日常的な自我の意識は殆ど無くなっていく。

その状態で意識に感知されるのは呼吸のみである。生きている限り呼吸からは免れられないからだ。

即ち、「呼吸に意識を払う」という間接瞑想は、本当の瞑想が起きた時の状態、静寂の中に呼吸だけが存在する状態をただ真似ているのである。

 

では、「本当の瞑想」とは何か?

瞑想の「本当の目的」とは何か?

我々人間は、なぜこの世界に存在しているのか?

 

その回答が、「直接瞑想」なのだ。

 

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