直接瞑想とは?

 

直接瞑想と「本来の自己」

直接瞑想とは、瞑想の本当の目的である「本来の自己」を直接認識し、育てる技術である。

そしてそれは同時に、この世界における人間全ての共通目的でもある。

 

「本来の自己」とは、生まれた時(生まれる前)から備わっている人間の根本部分の事であり、一般的表現で分かり易く言えば「神」であり「仏」であり「キリスト」である。

その性質は、「波の無い湖面の様な静寂」であり、「子供の無邪気さ」であり、「無条件の愛」であり、「絶対的な確信」であり、「知性的・客観的な判断力」であり、「子宮に帰った寛ぎ」であり、「絶対的な普通さ」であり、「無」や「空」であり、それらを含みそれらを超えて一笑する者でもある。

 

「本来の自己」を表す適切な言語はまだ無く、知りたければ体現するしかない。もし言葉で現したとしてもそれは知り得ない者にとっては矛盾に満ちている。それは「本来の自己」が矛盾に満ちているのではなく、人間の言葉や論理自体が矛盾に満ちているからだ。

「本来の自己」はそれ故にどんな言葉でも表現できるものである。世界の宗教の表現が多種多様なのは「本来の自己」のこの性質による。

 

肯定的に表現したければ「神の愛」とか「至上の寛ぎ」とか「無上の喜び」と言えばいいし、否定的表現が好みなら「反逆者」とか「全ての価値観の破壊者」、「無」、「古い自己の殺戮者」という表現が使える。

慈愛に溢れた聖母マリアも、血の滴る生首を抱えた女神カーリーも、どちらも同じ「本来の自己」の表現である。

 

「本来の自己」は禅においては「本来の面目」と呼ばれる。

一休禅師は「本来の 面目坊が立ち姿 一目見しより恋とこそなれ」と謳い、白隠禅師の「坐禅和讃」は「衆生本来仏なり」で始まり「此の身即ち仏なり」で締めくくられる。

禅の修行の要諦は「只管打坐(しかんたざ)」であり、ただ座り何もしない事である。これは最も優れた間接瞑想とも言える。全てが消えた後に残るものが「本来の面目」であり、それは直接瞑想が目的とする「本来の自己」と同じである。

直接瞑想においては、瞑想の初期段階から禅の最終目的である「本体の面目」を認識し始める事を目指す。

 

またインド哲学においては「本来の自己」を「アートマン」と表現し、生命体の中心にある至高の自己を意味する。

南インドの聖者、ラマナ・マハリシは「私は誰か?」を徹底的に追求するアートマ・ヴィチャーラ(真我探求)を広めた。これは遠回りではあるが、直接瞑想の一種とも言える。

ここでの直接瞑想においては、「私は誰か?」の探求は既に終わっている。瞑想者は、様々な疑問の迷路に迷う事無く、最初から「アートマン」を直接のターゲットとしていくのである。

 

様々な精神探求の世界において「本来の自己」は最上位に掲げられているが、直接瞑想においては最短の時間と最小の労力で「本来の自己」へ直接到達する事を目指している。直接指導において数秒で「本来の自己」へのシフトが始まる人もいる。

 

ここで疑問が起きるかも知れない。なぜ人は「本来の自己」を認識し、育てなければならないのか?

それは、人間が存在する目的が、「本来の自己」を認識し、育てる事だからだ。全ての人間が「苦痛と喜び」という羅針盤によって最終的に「本来の自己」に導かれざるを得ない様に創られている

 

人間は元々「本来の自己」であった。それは完全で幸福で何の不足も無い状態である。ある時その「本来の自己」に人間の肉体が与えられ、この世界に投げ込まれた。その目的は、様々な苦痛を味わった後に、再び「本来の自己」に帰って来る為である。

「そんな事に意味があるのか?」という疑問が湧くかもしれないが、その意味などそれこそ「神のみぞ知る」である。しかし一つ言えるのは、最初から最後まで「本来の自己」そのものであり続けたとしたら、自分の完全なる幸福に気づく事は無かっただろうという事である。

我々人間は何者かによって楽園を追放され、ただ帰って来るだけの目的でこの難儀な旅路に投げ出されたのである。人間の成り立ちはただそうなっており、それを認めて従い苦痛から解放されるか、認めないで苦痛の中に生きるかの二者択一しかない。

 

精神世界において、人間の最良の状態への進化の事を「悟り」というのは何故だろう?

もし、様々な努力をし様々な特質を身につけてそこに至ったのであれば、それは「悟り」とは呼ばれず、「達成」とか「完成」と呼ばれた事だろう。絵画の世界で言えば、様々な絵の具を巧妙に重ねて完成した画の様なものである。描かれた画は多種多様になり、それぞれの作者によって全て違った画になるだろう。

 

精神世界における「悟り」とは、それとは逆の意味を持つ。

即ち、人間は生まれつきとその環境によって既に色々な特質が身に付いており、その特質を一つ一つ剥ぎ取って最後に残ったものを認識する事が「悟り」なのだ。それは最も個人的なものでありながら最も一般的・普遍的なものである。悟った人は皆共通のものを見つけている。それの性質は万人が同じであり、想像や創造されたものではない。

絵画の世界で言えば、既に描かれてしまっている画の絵の具を一つ一つ剥ぎ取り、ただの真っ白いキャンバスへと戻す様なものだ。我々は既に「描かれた画」なのである。絵画の表現は多種多様になるが、キャンバスは絵画以前から存在しており、万人に共通のものである。

悟ったと言われる人々は、程度と表現方法の差はあれ皆同じ認識をしている。元々あったものを再認識するからそれは「悟り」と呼ばれているのだ。それは「創造」でもなく「完成」でもない。最初からあった万人共通のものの「再認識」である。

 

アルメニアの精神的指導者グルジェフは、「本来の自己」と「一般的個人」の認識の差を「客観的」と「主観的」という言葉を使って表している。

我々一般的個人の様々な物に対する認識と解釈の仕方は、その人の生まれつきと環境により多種多様である。鏡に例えればその鏡面は人によって様々に歪んでおり、傷や色がついていたりする。当然その鏡に映った像も実物からかけ離れている。この、人それぞれの特質を通した認識を「主観的」と呼び、それには共通性が無く普遍性や持続性もない。一般的個人同士が同じ事項についてコミュニケーションをしても、お互いの「主観的」な認識は最初からかけ離れており、かろうじてごく一部分でのみ合意が成り立つ、というのは我々が普段良く経験する所である。

これに対して、いわゆる悟った人の認識は、表現の差はあるが皆同じである。それは傷ひとつない平滑な鏡であり、物事をそのまま写し出す。ここにおいて人間同士は初めて共通認識の上に立った本当のコミュニケーションが出来る様になる。それは普遍的であり変わらない持続性を持つ認識であり、グルジェフはこの事を「客観的」な認識と呼んでいる。

 

この様な言明を聞くと、「本来の自己とは、私の想像を超えた超越的、神的な何かであり、今の私とは全く関係無いし到達も出来ないものだ」という思いを抱くかも知れない。

しかし、あなたは今この瞬間も、「本来の自己」と共にありそれを無意識のうちに感知しているのだ。それはあなたの「本源」であるから、あなたは何を失ってもこの「本来の自己」だけは失う事が出来ない。

それは「普通の中の普通」であり、あまりに普通すぎてその存在が意識の対象にならないのだ。禅の世界ではこの事を「平常無事(びょうじょうぶじ)」と表現し、悟りを神秘化する事に警告を発している。

悟りとは、普通の事を普通に認識するだけの事なのだ。悟った瞬間、大笑いする人間が多いのはその為である。

「なーんだ、悟りとはこんな事か。今までずっと私はそれだったではないか?」と。

 

しかし一般的に我々が瞑想をする早急の必要性は何かと言えば、それは「本来の自己の探求」ではなく、「苦痛からの解放」が一番と思われる。現に私もそうであった。

人間は、いわゆる「悟った」状態にならなければ絶対に消えない苦痛を生まれつき背負わされており、この苦痛の事を私は「根源的苦痛」と呼んでいる。この「根源的苦痛」に敏感であればあるほど、瞑想の必要性は火急のものとなる。

 

この「根源的苦痛」を直接・最短で解消する方法が直接瞑想である。

 

直接瞑想の効用1>