直接瞑想の効用2 

-日常意識からの脱出・心のリセット-

 

直接瞑想とは、日常の心配事の存在しない真の「今・ここ」へ没入できる最高の趣味である

また、別の観点からレジャー、趣味を捉えて直接瞑想と比較してみよう。

 

そもそも我々はなぜレジャーや趣味を持つのか?

良く聞かれる事は、「それをやっている間は、日常の雑事の全てを忘れて没頭出来る」という言葉である。

「我を忘れる程何かに熱中したい」と思わない人がいるだろうか? もしいたとしても、その人が何かに熱中した後に得られる充実感は同じものだろう。何か一つのことのに熱中している時、人の意識は完全に「今・ここ」にあり、過去の後悔や未来の心配事から解放されている。

 

我々が趣味に求めている主なものは、この過去や未来からの解放であり、意識を「今・ここ」に戻す事なのである。

レジャーにおいて、常に上位の人気を誇るのが「旅行」なのは主にこの理由による。普段生活している場所に居れば、そこにある殆どのものは既知のものである。そしてそれらを見る度にそのものについての過去の記憶や未来の予測が浮かび上がり、その同じ思考が毎日の様に繰り返される。通常の人間は、あるものを見ると無意識のうちに決まった連想が働き、その思考を意識的に止める事は出来ない。

 

通常の人間がこの「無意識な定型反復思考」を停止する為には、日常とは違う新たな刺激が必要である。旅行に出れば、そしてそこがその人の日常とかけ離れていればいるほど、そこにあるものについて「定型反復思考」をする事が出来なくなってくる。海外旅行や大型遊園地が人気があるのはその為である。そこには我々の「日常」はなく、目にするものは普段の日常ではあり得ない光景であり、それについての「定型反復思考」は起き様がない。目の前にあるものに集中せざるを得なくなり、意識は過去や未来と離れて「今、ここ」に戻ってくる。

旅行の様に、「普段の日常では見られないもの」を見るレジャーとしては他に水族館や動物園、美術館等がある。いずれも、普段とは違うものを見る事によって過去や未来への思考から逃れて「今・ここ」へと戻ってくる為の手段となる。

 

また、これとは別の角度から「今・ここ」に戻ってくる方法もある。それは「危険」な状況にあえて自分を置く事である。

 

自動車レースやパラグライダー、ロッククライミング等、場合によっては命を落とす危険がある事をわざわざ「趣味」として実行する人は、そこに何を求めているのだろうか? そこには色々な意味があるだろうが、大きな理由は「それが危険な行為だから」である。

命を失う可能性がある程危険な状況に置かれた人間は、過去や未来の事など思う暇は無く、その瞬間瞬間即時に適切な対応をせざるを得ない。生物の本能が「自分の命を守ること」であるから、これは当然の反応と言える。

危険な趣味を好む人々は、自分の意識を「人間の日常生活レベル」から「生物レベル」まで回帰させて、強制的に「今、ここ」に意識を引き戻しているのである。それは日常生活ではあり得ない、根源的で強烈な体験となり、一度経験した人はまた同じ刺激を求めて危険な趣味に没頭する様になる。

 

この様に我々は、日常における過去や未来への「定型反復思考」を離れて「今・ここ」へ戻って来られる手段をいつも求めている。

人々は旅行の様な「普段見られないものを見る」ということ、自動車レースの様な「危険な行為」、また様々なスポーツや創作活動など、「日常を忘れさせてくれるもの」を求めて雑誌を読み漁り、ネットの海を漂い、友人との情報交換を繰り返す。

広告代理店やメーカー等の各企業はその人間心理を熟知しており、社会情勢に合わせて商品を繰り出したり、様々な「ブーム」を巻き起こしたりといった手段で購買者の意欲を煽り、時間と金銭の消費へと向かわせるのである。

 

直接瞑想者は、この構図全体を笑う。

「そんな事に時間とお金と手間暇をかけないで、直接瞑想によってただ『今・ここ』へ戻ってくればいいじゃないか」と。

直接瞑想に習熟してくると、人間存在の根源的状態が分かり、それと今の人間社会を比較する事で現代社会を動かしている「裏の原理」や「黒幕」の存在が段々分かってくる。その原理の一つは、様々なレジャーや趣味は「直接瞑想の不完全な代用品」に過ぎないという事である。

 

直接瞑想においては、費用も休暇も道具も場所も使わずに「直接」に「完全な今・ここ」に存在する事が出来る。

これに対して様々なレジャー・趣味は費用や休暇や手間暇をかけるが、「自分」と「今・ここ」の間に何らかの「媒体」を必要とする。先の例で言えばクルーザーや自動車、知らない土地の景色等を通して「今・ここ」を垣間見るが、その「媒体」が不完全であれば「今・ここ」には入れないし、完全であったとしてもすぐそれに「飽きて」しまい、更なる上の刺激を求めて浪費の悪循環に入っていく事になる。

 

また、趣味に没頭する人が良く冒す間違いは、「その趣味の対象自体」が「素晴らしい」と思う事である。

自動車が趣味の人は「この自動車が素晴らしい」からその自動車に時間と金銭を注ぎ込んでいると考えているし、天体観測が好きな人は「星々の輝きが素晴らしい」から毎晩空を見上げていると考えている。しかし、自動車にも天体にも興味が無い人から見れば、それらに労力を注ぎ込む事など考えられない。この人にとっては自動車も天体も特に「素晴らしくもない」のでる。

この、各人それぞれに違う価値観を「相対的価値」と表現する事も出来る。

 

「相対的価値」は各人によって様々であり、同じ人にとっても時間の経過と共にどんどん変化していく。昨日まで「素晴らしい」と思い、時間と金銭を散々注ぎ込んだものが今日になって「つまらない」ものに変わってしまう、という経験は誰でもあるだろう。そこが企業の狙い目でもあり、人々はころころ変わる目先にどんどんお金を注ぎ込むのである。

共通の趣味を持つ人々が「サークル」を作るのは、自分たちの価値観が「相対的価値」でありいつでも変化しうる危ういものである事を無意識のうちに知っており、いわゆる「同好の士」と会う事によって自分の価値観を定期的に再強化する必要性を感じているからでもある。「仲間の居ない趣味」というのは周囲の理解者も無く、余程本人が好きでなければ継続しないものだ。

 

これに対して、殆どの人が「素晴らしい」と思える「絶対的価値」とでも言うべきものが存在する。それは、「一つの事に集中して他を忘れる」と言う事である。各々の「相対的価値」のあるものは、ほぼ全てこの「絶対的価値」へ到達する為の手段である。

直接瞑想とは、この「絶対的価値」へ時間もお金も手間隙もかけずに最短直接に到達する技術である。

 

通常の人間はあちこちへと彷徨う自己の思考をコントロール出来ず、レジャーや趣味等の「間接的価値」のあるものを手に入れて注意力を強制的にそれへ向かわせる事によって何とか「今・ここ」へ到達する。それは「瞑想的な訓練をしなくても済む」というメリットがあるが、時間と金銭がかかり、それに伴うストレスも大きい上に、そのレジャーや趣味に「飽きてしまう」という危険性が常にある。飽きたらまた別の「間接的価値」のあるものを探し、また同じ様に時間と金銭を浪費する。

 

「ならば、レジャーや趣味などに走らずに、全ての人間が直接瞑想をすれば良いではないか?」と考える人も居るであろう。それは正にその通りで、それが「真実」である。

しかし、この「真実」が一般レベルにまで広がってしまうと困る人々がいる。それが誰かは言うまでも無いだろう。現在、これ程までに様々なレジャーや趣味が氾濫している「根本原因」は、この「絶対的価値」に対する「真実」が一般的に知られていないからである。

 

色々なメディアは、「あれが素晴らしい、これが素晴らしい」と言う「相対的価値」に関する情報を延々と流し続け、それにつられて我々は右往左往し、企業の策略通りに時間と金銭を消費し、それを繰り返している間にどこにも行きつかないままで一生を終えてしまう。これが現代社会の仕組みである。

 

しかし過去にも現在にも、その「仕組み」に気づいた人間は一定数存在し、その中には「真実」を流布して社会へ警鐘を鳴らそうと試みた者も多かったと思われる。

しかし社会は常にそういう者たちを様々な方法で排除してきた。なぜなら、その者達の言う事が「真実」であるとするならば、今までの自分の人生を否定する事になってしまうからである。すでに人々は、「相対的価値」しか持たないものに多大の時間とお金を注ぎ込んでしまっている。この状態で「真実」を聞き、それに従うのは余程成熟した人間以外は無理だろう。

こうして社会は、「真実」の情報をもたらす者たちに「嘘つき」や「胡散臭い」と言うレッテルを貼る事によって自らを守って来たのである。

 

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