直接瞑想の効用3 

-本当の「仲間意識」-

 

直接瞑想を行なっていくと、全ての人間が「仲間」になる

もう一つの角度から、趣味と瞑想を比較してみよう。

 

その趣味に興味が無いにも関わらず、「やっている人が多いから・誘われたから・知人がやっているから」という理由で趣味のサークルに入るというケースは多々ある。ここで人々が求めているものは、一つの事を皆でやるという事による「仲間」の獲得である。

 

人間はその成り立ちからして集団生活をする様に出来ている。肉体的にひ弱な人類が生き残れたのは、食料や住居の獲得の為に集団生活が出来たからであり、その記憶は我々の遺伝子に残っている。我々は本能的には孤独を嫌い、仲間を求める傾向にある。

海外では、大自然の中で全くの孤独な状況で何日生き残るか?という大金が賭けられた過酷なゲームがあるが、大抵の者が食糧難よりも「孤独」に耐えられなくなってリタイアしている。

 

では、スピリチュアル的に見た場合、「仲間を求める」という事はどういう事か見てみよう。

我々が「仲間」と認識する者に出会う時、我々の中にある心理的な「第二の体」とでも言うべきものはどう反応するだろうか?

遠方から来た親友と久々に会う場面を想像してみて欲しい。駅の改札で彼の姿を一目見た途端にその心理的な「第二の体」は一気に拡大し、周囲の人々は気にならなくなる。その改札周辺全体が「自分の世界」に変わり、そこには親友と自分しか居なくなる。それは親友も同じ事で、貴方と彼はお互いに拡大した「自分たちだけの世界」に入り込み、自然に笑顔が弾けて抱擁し合う事になる。それは再会における最も高揚する瞬間であろう。

 

我々が「仲間」に求めている主なものは、この心理的な「第二の体の拡大」なのである。

人が孤独を感じている場合は、この「第二の体」が縮小していて、外界が皆敵になってしまっている。逆に周囲に「仲間」が沢山いる時はこの「第二の体」は拡大し、その中全てが「自分の世界」になり安全と安心が得られる。

 

一般的な人々は、この「第二の体」を自分の意志のみで直接拡大させる事は出来ないので、様々な間接的な手段で「第二の体」を拡大させる事になる。好きな映画にどっぷり浸る事でも拡大出来るし、大海原や森の中で自然との一体感を感じる事で拡大させる事も出来るが、一番実際的かつ強力な拡大作用は「仲間」たちと出会う事である。

我々は「第二の体」を拡大させる為に「仲間」を必要とし、自分の周囲を何とか「仲間」で溢れる様に自分の言動をコントロールする。

 

しかし職場の様な強制的に集められた集団において真の「仲間」を作る事は極めて難しい。皆ある意味「仕方なく」付き合っているだけであり、仕事上の義務が無くても私的に付き合いたいという人は少ないだろう。

そこで我々は「同じ趣味」という共通事項を持つ、強制力の少ない「仲間」を作るのである。もちろんそこでも様々な人間関係が生まれ義務も生じるだろうが、職場に比べれば遥かに「仲間」が作りやすい環境となる。

バイクのツーリングやスポーツ、好きな音楽を聴く等、同じ事を同時に行えば皆の「第二の体」の形態もだんだん同じになっていき、そこに「仲間意識」が芽生えて第二の体は拡大していく。この「拡大した第二の体」の中が安全と安心に満ちた「自分の世界」となる。

 

「趣味のサークルに入り、仲間を作る」という事をスピリチュアル的視点で見てみると、それは「ハートの拡大を目的とした間接瞑想」であるとも言える。「第二の体」には様々な要素があるが、その中でも重要なのは「ハート」と呼ばれる胸にある領域である。仲間に会う事によって拡大しているのはこの「ハート」の部分なのだ。

このハートは拡大すればする程、子宮に還った様な寛ぎと自然な愛情が湧いてくる。有名な間接瞑想の一つに「自分のハートがどんどん広がっているとイメージしましょう」というものがあり、多くのファンが存在する人気の高い瞑想となっている。

 

直接瞑想においては、このハートに意識を持っていく事によりハートそのものを自然に拡大させる。道具も仕掛けも想像も趣味の仲間も必要としない。そしてそれは「仲間など不要である」という事ではない。これについては後述する。

 

趣味のサークル等において「仲間」を作るのは多大な努力が必要となる。まずその環境に身を置くために金銭や時間を割かなければならない。また人間は一人一人皆違っているので、お互いに本当に理解し合うのは至難の業である。そこにチャレンジする事にこそ価値があるというのも真実ではあるが、その努力が水疱に帰する場合が多い事は「おとな」なら経験済みであろう。

 

直接瞑想においては、「趣味の仲間」という時間とお金と手間暇の掛かる「相対的価値」を経由せず、ストレートに「ハートの拡大」という「絶対的価値」へ到達する。周囲に誰もいなくても、また逆に周囲に誰がいてもただ自分のハートを拡大すれば、そこが「自分の場所」になる。

直接瞑想者にとっては、全ての場所が「我が家」であり、「ふるさと」となるのである。

悟りの体験における共通事項の一つに、「強烈な一体感」や「自己が溶けて無くなる感覚」というものが多く報告されているが、これはハートが拡大した様子を示している。

 

では、直接瞑想者にとっては「仲間」など必要なく、「仲間意識」も無いのであろうか?

最初の問いに対しては「仲間という媒体を介さなくても『第二の体』を拡大できるという点において、仲間は必要無い」とも言えるだろう。

第二の問いに対しては、「直接瞑想者は、全ての人間を『仲間』と感じている」と言える。

即ち、「特別な仲間は必要無いが、全ての人間が自分の仲間であると感じている」のである。これはどういう事であろうか?

 

通常我々が「仲間」と見做す人は、「自分との共通事項が多い人間」である。同じ趣味を持っていれば、最初から大きな「共通事項」があるので仲間になり易くなるのは間違いない。

我々は生まれ付きの資質も育った環境も全て違うので、二人の人間の間の「共通事項」は自ずと限定され、その人が持つ全要素の中の極僅かな部分のみが共有される事になる。それでも人々はその僅かな共通事項を頼りに「仲間」を求めて彷徨う。全ての人の根源的な望みは「ハートが拡大すること」だからであり、その一番強力な方法の一つが「仲間を得る」事であるからだ。

人々は「育った環境が似ている」とか、「ある事項についての考え方が同じである」とか「同じものを愛好している」といった点を探し出して「仲間」を作る。それは一人一人違う様々な「相対的価値感」の中での僅かな共通事項を探しているとも言える。

 

これに対して直接瞑想者は全ての人間に共通する「本来の自己」が体験から分かっており、その意味では全ての人間に何の違いもない。先の白隠和尚の言葉「衆生本来仏なり」の様に、全ての人間が等しく神であり仏であり尊いものである事を知っている。

一般の人々が見ている相対的な「共通事項」は直接瞑想者から見れば単なる「表面」であり「本質」ではない。その「見かけ」の底にある「本来の自己」は万人共通のもので最上のものである。そこに差別が生まれる余地は無い。

 

直接瞑想者から見れば、一般の人々が問題にしている事項は「来ている服の違い」でしかない。

「あの人の着ている青い服」「この人の着ている白い服」という服をその人の「人間そのもの」と思い込み、「あの人はああいう人間」「この人はこういう人間」と判断し比較し分類し取捨選択する。

しかしその人の着ている服は「その人そのもの」ではない。ここで言う「着ている服」とは、その人の持ち物や経歴や経験、特技や不特技や性格や考え方を表している。

 

 

直接瞑想者は、「着ている服」は人間の本質ではなく、相対的にころころと移り変わる一時的なものである事を経験で知っている。それは変わらない「本来の自己」を経験し、それと自分の持つ他の特質を比較する事によって得た知識である。

「本来の自己」は成長こそすれ本質的には変化しない。これに比べて性格や考え方や「座右の銘」はいつでも変化しうる相対的なものである。

着ている服は違えど、中身は人間である事に変わりはない。

直接瞑想者が重視するのは「人間である」と言う事だけである。服の違いは一時的な表面だけの違いに過ぎない。

 

直接瞑想者である彼は表面上ではある人と激しく争っているかも知れない。しかし内面の奥深くではその人を優劣や違いを超えた場所から見ており、その視点から見れば争っている相手も「仲間」なのであり、彼の自然な愛情の対象なのだ。

 

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