直接瞑想の効用4 

-真の「やりがい」-

 

直接瞑想とは、最高に「やりがい」がある事である

  我々が「やりがいのある仕事」「やりがいのある趣味」と言う時、何を想定しているのだろうか?それは、その仕事や趣味によって、それをやった「甲斐」がもたらされると言う事である。「甲斐」とは、「効き目・効果・値打ち」等を意味する。

例えば、映画を見に行ったり有名なレストランで食事をしたりする事は、その間のみが有益で楽しめる時間であり、映画館やレストランから出たらまた日常へ戻らなければならない。その観点から見ればこれらは一過性の楽しみであり、あまり「甲斐」のある事とは言い難いだろう。

 

これと比較して、各種スポーツ・武道等は、それを行っている間の楽しみだけでなく、健康な肉体を得る事によって日常生活にも恩恵をもたらす。一過性の楽しみよりは遥かに「甲斐」がある事と言える。

しかしその「甲斐」にも限界がある。それは、怪我や故障により継続出来なくなる事、加齢により競技が行えなくなっていく事、継続を止めれば能力は徐々に落ちていく事等である。これは以前スポーツを楽しんでいたり、競技者を目指して真剣に取り組んでいた人々なら良く理解する所であろう。

スポーツの世界においての競技者のピークは若い頃の数年に限られており、それ以降はどんなにトレーニングを積んでも競技能力は落ちていく。スポーツも「それをやり続けても一生涯成長し続ける事は出来ず、ある年齢から退化していく事は避けられない」と言う観点からある意味「甲斐が無い」事と言えるかも知れない。

 

この観点から見れば、真に「やりがい」のある事とは、「生涯に渡って続ける事が出来、年齢に関係無く続ける程に成長していくもの」という定義も出来る。

直接瞑想において鍛えられるのは肉体そのものでもなく、肉体を使った技術でもない。鍛えられるのは人間の「意識そのものの強さと操作技術」であり、「心と体を真に休息させる技術」であり、「自己の最奥にある『根源的愛情』を解放する技術」である。それは続ければ続ける程螺旋を描いて成長していき、加齢による成長の限界は無く、一生の間成長し続けていく。そして、死の瞬間はその成長のピークとなり、祝祭となる。何故なら、直接瞑想において成長した「本来の自己」は死を超えて存在するものだからである。肉体的技術や金銭や持ち物、人間関係等、これ以外の全てのものは「死」によって奪われるが、「本来の自己」は奪われる事が無い。

 ある分野において素晴らしい業績を上げ、歴史に名を残したとしても、その人間は「名声」を持ってあの世へ行く事は出来ない。自分の肉体はもちろん、家族も友人も連れていく事は出来ない。知識や記憶も全て消えていく。残るものは「本来の自己」のみである。

 

直接瞑想とは、「一生の間、いつでもどこでも実行し続ける事が出来、その成長した成果は退化する事が無く、生涯に渡って成長し続けていき、死によって奪われる事が無い」という、最高に「やりがい」がある事と言えよう。 

 

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