直接瞑想の効用5 

-「苦しみ」の減少-

 

直接瞑想によりエゴの働きが減少し、苦しみが少なくなっていく

人間である以上、「苦痛」は避けられない。

我々は楽しむ為にここに存在しているのではない。仏陀が「一切皆苦」と表現した様に、苦しむ為に存在しているのだ。

この世界においては全てが不完全であり、ここは苦しみ抜いた後に心の底から「もうこの世界はいやだ! 別の次元へ行く以外無い!」という叫びが起きるまでの単なる「中間地点」なのである。

 

この世界においてどんな「成功」をしようとも、苦しみは無くならない。「成功」する本当の目的は、金銭や地位や人間関係の獲得などの「いわゆる成功」など根本的な解決にはならない事を学ぶ為なのだ。何度かの「成功」を経験しても依然として存在する不満や不安に気づいている「おとな」であれば、自分が「成功の無限ループ」の中に居る「乞食」である事が理解出来るだろう。

逆に言えばこの世界の役割は「ここの不完全さ・苦しみに気付き、苦しみの無い別の次元がある可能性に気付き、そこへ行く為の努力を始めさせること」にある。

人間の目から見れば、真実は矛盾に満ちている。我々はこの世界から脱出する為にこの世界に居るのだ。

 

我々がこの世界から脱出して苦しみの無い次元へ行く為の羅針盤が「苦痛」なのである。「苦しんでいる」という事は「何かが間違っている」という「存在からのサイン」であり、「その方向は間違っているよ」という存在からの囁きである。

その「間違った方向」というものは一般的な人間の場合は大抵「エゴを助ける方向」の事である。

 

 病気や悪い環境等による肉体的な苦しみについては単純に物理的に解決していくしか無い。風邪に罹れば休養しなければならないし、空腹ならば食べなければならない。

しかし精神的な苦しみの場合はどうだろうか?

 

 例えば、「ある人に批判されて傷付く」という「苦痛」を味わっているとしよう。

 この「傷付く」という現象の裏には、「認められたい」という「エゴの欲望」が潜んでいる。本人は認められたい。しかし現実にはある人に批判されている。

ここで本人の「承認欲求」と現実の「批判」とが衝突・対立する。この二つのベクトルがぶつかった時に生まれるのが「苦痛」である。

この苦痛は「承認欲求は間違っているよ」という「存在からのサイン」である。承認欲求が無ければ批判はただ本人の上を通り過ぎていき、傷付く事も無い。

 

「ではエゴの欲望を無くせば良い」とは良く言われる常套句である。しかしこれを現実的に実行することは通常不可能だ。「エゴの欲望を無くしたい」と思っているのも「エゴ」であるからだ。

それはエゴにとっては自殺するのと同じ事であり、相当の絶望と勇気と覚悟が必要である。普通の人生においてそれは一生に一度有るか無いか位の強烈な危機の体験を必要とする。逆に言えば、全てを失う程の強烈な体験を生き残れば修業などしなくても悟ってしまう可能性が高いという事だ。

 

直接瞑想においては、エゴの欲望を捨てるという「不可能な努力」は必要としない。ただ「本来の自己」を認識するだけである。

「本来の自己」に慣れ親しんで来ると、今まで自分を突き動かしていた「エゴの欲望」がとてもつまらないものに見えてくる。今までのあなたは「エゴの欲望」という「オモチャ」で遊んでいたが、「本来の自己」という「本物」が現れ始めると、「オモチャ」への興味は自然に薄れていく。

 

精神修行の一つとして、「エゴの思考・欲望を徹底的に分析し、その正体を見極める」事によってエゴから離れていくという手法もあるが、「エゴを徹底的に分析する」のもエゴであり、エゴの自己保存本能との激しい戦いに勝たなければならない。その場合の「勝利」とはエゴにとっては「自殺」と同じ事であり、相当の抵抗が生じる。

 

直接瞑想においては、「エゴの思考・欲望」はただのイミテーションであり、「本来の自己」という本物を手に入れたら必要最低限のものを残して捨てるだけのものである。イミテーションの成分をいちいち分析する必要は無い。本物を知れば自然に偽物への興味が無くなっていくだけの事だ。

 

通常我々は「エゴの思考・欲望」を「自分そのもの」としてとても大切にしており、自分のアイデンティティにしている。

「あなたのエゴとは何ですか?」と聞かれた時、多くの人は自分の中の「わがままな部分」だけがエゴと思っている。しかし、あなたが「本来の自己」を知らない限り、あなたが「自分自身」と思っているほぼ全てが「エゴ」と言っても間違いではない。イミテーションを本物だと思っているのである。

従来の手法は、「お前が宝石だと思っているものは実は偽物だ。だからそれを捨てなさい。」というものが多い。しかしイミテーションを宝物と思っている人々に対してそれは不可能な話である。

直接瞑想においては、各々が抱えているイミテーションはそのままにして、本物の宝石の輝きと存在感に触れさせていく。最初はイミテーションに対する執着が強い人でも、本物に触れ続ける事によって「新たな執着」が生まれてくる。即ち、「この本物の宝石を完全に手に入れたい」という欲望である。

 

欲望の無意味さを悟らせ、それを落とさせるという修行は大きな抵抗を生み、自殺するのと同等の覚悟と勇気が必要となる。

これに対して直接瞑想では、今までの欲望はそのままにして何も操作せず、「本来の自己」に対する「新たな欲望」を作り出す。この「新たな欲望」の磁力が強まっていくに従って従来の「エゴの欲望」の磁力は徐々に落ちていく。そこに衝突や抵抗は存在しない。

暗闇をいくら分析し批判し嫌ったとしても暗闇は無くならない。暗闇を無くすにはただ明かりを点ければ良いだけである。そうすると、「暗闇」というものは元々存在していなかった事が分かる。

 

「本来の自己」という明かりの元では、「エゴの欲望」という暗闇はただ消滅する。もちろんその明かりは何度も消え、その度に暗闇は出現するが、直接瞑想に習熟するに従って自在に明かりを灯せる様になってくる。誰かに批判されて苦しんでいる自分に気付いたら、その苦しみと戦う事はせず、ただ「本来の自己」に戻る。そうすれば、本来の自己という「明かり」によって苦しみという「暗闇」はだた消えていく。

 

これは日常生活における従来のストレスが大幅に減る事を意味する。

現実社会は戦場の様なものである。毎秒ごとに大量の砲弾が空から落ちてくる。我々はその砲弾を無意識のうちに大量に受け続け、戦い続けている。その戦いによって知らない間に大きなストレスを溜め込み、それが漠然とした不安や無気力の原因となっている。

砲弾は社会での労働の義務や同調圧力ばかりではない。道を歩いている時にすれ違う人のちょっとした表情や視線、道端にあるゴミや救急車のサイレンなど、様々な視覚・聴覚情報の中にも大量の「砲弾」は隠されている。

その砲弾による攻撃をまともに受けてしまうのが我々の「エゴ」と呼ばれる部分である。エゴが大きければ大きい程、命中する砲弾の数も大量になっていき、苦痛はどんどん大きくなっていく。

 

直接瞑想によって「本来の自己」が成長していけば「エゴ」は自然に小さくなっていき、砲弾はだんだん当たらなくなってくる。飛んで来る砲弾の軌道も良く見える様になり、事前に安全な場所に避難する事も可能になる。さらに、砲弾が当たったとしてもその瞬間に身をかわす事によって被害を最小限に抑える事が出来る様になる。

 

今まではある場所へ行く為には100発の砲弾を受けねばならなかったが、エゴが小さくなってくれば砲弾に当たる事無く楽々と目的地へ着ける様になってくる。砲弾によるストレスと戦う事に費やされていたエネルギーはその方向を変えて、他人への同情や新たな生活の創造へと配分されていく。

元々持っていたエネルギー量に大きな変化がある訳ではない。ただエネルギーの方向が変わっただけである。それだけで、人生そのものが全く違ったものになるのだ。

 

「より良い生活をする為には精神エネルギーの流れを変えれば良い」という技法は一般的には「ポジティブシンキング」と呼ばれているが、これに完全に成功する人間は殆ど居ない。「より良い生活をしたい」というのはエゴの欲望であり、そのエゴが弱まらない限り「より良い生活」は手に入らないからだ。

「精神エネルギーの流れを喜びや愛や創造性などのポジティブな方向へ流したい」と思っているのはエゴであり、そのエゴを使っている限りはエネルギーはポジティブな方向に流れては行かず、やがて逆流が始まる。それは自分で自分を持ち上げようとしている様なものだ。持ち上がったと思った途端落下が始まっている。

本当に必要なのは「エゴ以外の何か」を育てる事によってそちらの引力が強くなり、結果としてエネルギーがポジティブな方向へ自然に流れていく事なのである。

 

直接瞑想においては、自分で自分を持ち上げる事も、精神的な自殺を強要する事も、人それぞれの宝物を取り上げる事もしない。

ただ、「本来の自己」という本当の宝物の味わいを覚えさせるだけである。

その味わいに慣れ親しんで来るに従って、あなたの興味は「イミテーション」を離れ、自然に「本物」へ向かっていくだろう。

それに従ってエゴは自然に小さくなっていき、小さくなるに従ってあなたの感じる苦痛の量も減っていく。

やがて、今まで苦痛を感じていた殆どの場合でのストレスが消えている事に気づくだろう。

 

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