直接瞑想の効用6

-「無条件」の喜び-

 

「喜びそのもの」に直接到達する

直接瞑想において「ハート」が育って来るに従って、何の原因も無く「喜び」の中に居る自分を発見するだろう。

 

通常我々は「喜び」とは何らかの「条件」があって起きる物だと考え、その「喜びの条件」を求めて社会の中をあちこちへとさまよう。

一般的には、友人・異性のパートナー・金銭・休暇・趣味・レジャー等、人間関係的・物質的・時間的な「喜びの条件」が獲得された後に「結果」として「喜び」が起こると考えられている。即ち、一般的には

 

喜びの条件と思われるもの(金銭・パートナーの獲得等)→ 喜び

 

と考えられている。

しかし我々が経験上知っている事は、「これを手に入れたら喜びに溢れるだろう」と思っていたものを手に入れた時に、必ずしもそうならない事である。それを手に入れる代償が大きければ大きい程、喜びが得られなかった事へのショックも大きい。

これは、上記の図式が間違っている事を示している。正確に言うと、

 

喜びの条件と思われるもの → ハートの反応 → ハートの拡大(又はハートの満足)→ 喜び 

 

となる。この「ハートの拡大(満足)」が無い場合、どんな条件があっても喜びは発生しない。

 

喜びの条件と思われるもの → ハートの無反応 → 喜び無し

 

となる。

 

直接瞑想は、ハートを直接に扱う技術でもある。喜びに必要なのは「意識力」だけであり、 金銭やパートナー等の「中間媒介」は必要としない。直接瞑想者の図式は以下となる。

 

意識の発動 → ハートの感知 → ハートへの意識の継続 → ハートの自然な拡大 → 喜び

 

この場合の喜びは、中間媒体を介しない為、純粋な「喜びそのもの」となる。肉体が平常に維持されていれば、他にいかなる外的条件も必要としない。「理由なき喜び」である。

 

直接瞑想者はなぜ、理由も無く喜ぶ事が出来るのだろうか?

それは、人間は喜びに溢れているのが「普通」の状態だからである。ここで言う「普通」とは禅で言う所の「平常無事」と同じで「本来の自己」に戻った状態の事であり、我々の多くが置かれている「異常な普通」の事ではない。

 

「本来の自己」の状態は言い換えると「一切の義務から解放された、究極的に『気楽』な状態」でもある。

過去の失敗も明日の仕事も無く、広がるのは無限の「今」だけ。その「今の海」にただぷかぷかと浮かんでいる「魂のリゾート」状態である。

その中においては、自分が「喜んでいる」のではない。自分が「喜びそのもの」である事をただ「再発見」しているのだ。