0. 序文

2021.3.21

以前の私にとって茶道とは、「着物を着た女の人が集まってやる趣味の一つ」という位の認識しか無かった。

しかし、実際に茶道の世界の中に飛び込んで見ると衝撃の連続だった(たまたま私達が選んだ流派と師範による所も大きい)。

そこには人間の営みに関する全ての事が含まれていて、しかもそれが芸術にまで高められていた。

 

普段の立居振る舞い、人との接し方や心構え等は武道においても良く言われる所であるが、茶道ではそれに加えて書画骨董の鑑賞や取扱い、日本文化の歴史に関する深い理解、禅の知識と精神、お茶はもちろん懐石と呼ばれる飲食の作法、それらを含めた茶会と呼ばれるイベントの準備及び運営方法、招待状や礼状等の書き方、習字はもちろん短歌や俳句の詠み方、日常の掃除の仕方や食器の洗い方や管理方法、そして長期的な人との良い関係の保ち方等々。

そこには驚く程多くの要素があり、しかもそれらを合理的に、心を込めて、美しく行い、日常生活を芸術作品として完成させることを目指している。この世界においては「人間関係」さえその人の「作品」なのである。

 

考えてみて欲しい。

テーブルを拭く布を畳む動作や畳んだ時の形を芸術として扱う世界が、他にあるだろうか?

ドアの開け方や部屋の歩き方を美の世界にまで高めたものは?

強いて挙げれば日本の伝統的な礼法等があるが、茶道の特徴はお茶や懐石などの飲食を中心としている事である。

 

食事というものは生命を維持する最も根源的な行いであるから、その人間の本性が現れ易い。

見合いで食事をするのも、食事の仕方を見ればその人間というものが分かるからでもある。王族との政略結婚によりヨーロッパを掌握したハプスブルグ家でも、幼い頃から食事のマナーを徹底的に叩き込まれたという。

 

また、「一緒にものを食べる」という行為は、遡れば太古の人類が1頭のマンモスを皆で分け合って食べていた頃と同じく、人間の命の源を同じうする行為であるから、「同じものを食べる人=一緒に狩をする人=仲間」という認識が無意識のうちに為され、必然的に親しみが生まれ易い。初対面の人と親しむ手段として「食事でも行きましょう」となるのは人間のその性質を暗黙のうちに知っているからでもある。

 

また、考えてみれば飲食とは全ての生命が(呼吸を除いて)まず最初に行う行為であり、最も原始的な、ある意味最も「下品」な行為でもありうる。その最も下品な行為を最も高尚な「芸術」にまで高めるという事は、最低から最高までの遥かな道のりの全てが含まれているという事にもなるだろう。

 

以上の様に、茶道の世界に飛び込んで見ると、茶道とは「飲食を中心にして生きること全般を芸術として扱う」という、世界に類を見ない真の「総合芸術」である事に衝撃を受けたのであるが、一番最初に魅力に感じたのは多くの人同様に茶道の視覚的美しさであった。

 

特に当流(玉川遠州流:ぎょくせんえんしゅうりゅう)は武家の茶道をベースにしてそこに公家の要素も加わっており、他の流派には見られない細やかで雅やかで手の込んだお道具や作法が特徴となっている。人によっては「お点前の手順が多くて時間がかかる」とか「お道具が小さくて細かく、ちまちましている」と見る向きもあるが、そこがまさにこの流派の素晴らしい所だと感じている。畳の塵を鳥の羽で掃く流派などほぼ無いと言って良いだろう。

「大は小を兼ねる」というが、この流派を習えば「丁寧は粗雑を兼ねる」とでも言おうか、ここからいくらでも省略していく事は容易に可能である(まずやる事は無いが)。しかし、粗雑から丁寧に行くのは新たなる創造を必要とする大変な道であり、今まで習った事から一旦抜け出さなければならないとても時間のかかる行いである。茶道の奥深くまで行こうとするなら、一番丁寧な所で習うのが結局は一番の近道となる。そういう意味でこの流派とご縁が出来たのは私にとって本当に幸運であった。

 

20代で骨董に目覚め、買えないまでも見る目だけはサラリーマンクラス町内大会上位入賞程度の力はあると自負する私の目から見ても、先生のお道具はお宝の宝庫であった。当時の私の1年分のボーナスでも買えない砂鉄で作られた釜や、年収でも買えない茶碗などが目白押しである。物の価値は値段で決まる訳では無いが、良いものは必ず値段も高いのがこの世界。そして先生のセンスの良さと遊び心は万人の認める所であり、その先生の買う高価なものはその値段と価値が比例していると見て良かろう。

「良い骨董は視線を気落ち良く吸い取ってくれる」というのが私の骨董に対する基準の一つだが、先生の秘蔵のお道具には視線が吸い取られっぱなしでいつまで見ても飽きないものが多く、見る時点で相当の満足感があった。しかもこの貴重な骨董を実際に使えるのである。

 

普通収集された骨董は箱に入れられ奥深くに収納保管され、実際に使ったり見たりすることは殆どない。これは私からみれば正に「宝の持ち腐れ」であり、良いものは使ってこそ価値があると思っている。なので私の持っている収入に不釣り合いな食器や道具は日常的に使われ、妻に「あなたの食器は怖くて洗えない」などと怒られているのである。

 

貴重な骨董をそれに相応しい作法で丁寧に扱うというのは、それだけで心が洗われる行いであり、骨董の最高の使用方法と言えよう。そんな世界に入れた幸運には感謝するしかない。