「意識」について

1.一般的な「意識」の定義

 

我々は目覚めている間は意識がある状態であり、意識があるから様々な物事を認識出来る。逆に深い睡眠中は意識は無く、物事を認識出来ない状態にある。浅い睡眠の場合は夢を見たりある程度外界に反応も出来るので弱いながらも意識があると言えるだろう。

意識がある状態とは、外界の物事に五感が反応し、それによって脳において刺激を認識することが可能であり、刺激に対し明確な反応を示す状態を指す。これに対して、 無意識は五感に対する刺激が脳で感じ取られず、刺激を認識していない状態である。刺激に対する反応が部分的な状態である。また、「意識がない」とは、脳の働きが部分的に停止し、刺激の入力を拒否した状態である。

 

 アメリカの哲学者ジョン・サールによれば、

「意識とは、私たちが、夢を見ない眠りから覚めて、再び夢のない眠りに戻るまでの間持っている心的な性質のことである」

と定義しているが、その汎用性において優れた定義と言えよう。(ウィキペディアより)

 

2.瞑想における「意識」の定義

瞑想における「意識」とは、「空っぽの意識」、「意識する対象が何も無い状態」、「意識が意識自身を意識している状態」、「思考が無い状態」等を指す。具体的な感覚については後ほど解説する。

 

3.「意識」と「思考」の違い

 

瞑想における「空っぽの意識」とは、非瞑想者が通常の生活を送っている限り認識されることは無い、特殊な状態である。

 

一般的に日常生活における「意識」という言葉は、ある特定の対象物に自主的に注意力を向けることを意味している。

例えば、今あなたは呼吸をしているが、それを「意識」してはいない。「呼吸に意識を向けて」と言われて初めて自分の呼吸を知性で認識する様になる。

また、あなたが誰かに侮辱を受けた場合、あなたはその侮辱のシーンを何度も思い浮かべ、侮辱した相手に対する怒りを何度も反芻するが、その場合は「〇〇に侮辱された」という「思考」が注意力の対象物となる。侮辱が終了した後は通常の生活に戻り、いつもの様に外界の様々な物事が起きているが、あなたはそれには目もくれずに「自分の思考」に没入し、怒りをさらに燃え上がらせている。

この場合はあなたの「意識」は完全に「侮辱されたという思考」という「特定の対象物」に向いており、外界の物事に反応できない状態にある。この時のあなたにとっての「自分」とは「怒りそのもの」のことであり、あなたが自分を言い表すとすれば、「私は今、怒っている!」という表現になるだろう。

 

しかし瞑想者の内面においては、これとは全く異なった心理的プロセスが進行している。

瞑想者は「意識そのもの」を単独で認識している。それは鏡の様に物事をただ映し出し、それについて「良い」「悪い」「好き」「嫌い」等の「判断」をしない。そして瞑想者はこの「意識」を「本当の自分」として同化している。

瞑想者にとっては、「自分の思考」も「呼吸」も「机」も意識の「対象物」であり、「自分自身」ではない。非瞑想者にとって「自分の思考」は「自分自身」だが、瞑想者にとっては「自分の思考」は「自分自身」ではない。それは机やノートの様に「外側」の「対象物」なのだ。

彼は普段の日常生活においてはこの「意識そのもの」に主たる注意力を注いでおり、「この意識が本当の自分自身」というアイデンティティを持っている。この「意識そのもの」の性質は、「変化しないで安定していること」、「乱されること無く静かであること」であり、また意識そのものに留まることにより思考によるエネルギーロスを防ぎ、余剰エネルギーを精神的喜びと成長の為に自由に使用できる状態にある。「意識そのもの」の状態にあることは真の意味での「特権階級」なのである。

 

この段階にいる瞑想者でも地球上で生きている限り「エゴ」がゼロになることは無い。それは肉体的なプロテクトをも放棄することに繋がり、命の存続が危うくなるからだ。よって、誰かに侮辱を受けて「怒り」が発生することも十分ありうる。

しかし瞑想者にとってはその「怒り」及び「侮辱についての反復思考」は「外側」の「対象物」であり、「自分自身」ではない。彼は煮えたぎっている自分の「怒り」の背景に「乱されること無く静か」である「意識」が存在しているのを知っている。

そこで彼は注意力の方向を変え、「怒り」から「意識そのもの」へと自分のアイデンティティを移行していく。この作業は「意識そのものの認識」が立ち上がっていないと不可能である。

すると彼の怒りは単なる「外側の対象物」となり、それにエネルギーを送るか送らないかは自分の自由、という状態になる。当然彼は「エネルギーを送らない」という選択肢を選び、あとは自分の中の「怒り」がだんだん弱り、別のものに変化していくのをただ見物しているだけの状態となる。

ちなみにこの状態になると「怒りのエネルギー」は面白い変化を見せる。「怒り」に「追加エネルギー」を送らずに「完全野放し状態」にすると、その「怒りエネルギー」は全く逆の「愛のエネルギー」に変化する。

これはとても重要なことを示唆している。「感情エネルギー」の根源状態は全て「愛のエネルギー」だということだ。元々存在していた「愛のエネルギー」が「思考」によって変化して「怒りのエネルギー」に変わった訳である。

 

話が脱線したが、この時の瞑想者が自分の状態を言い表すならば、「私の中に『怒り』という感情が発生したが、それは『自分自身』ではなく、ただの感情エネルギーの一種である。私は『意識そのもの』という『本当の自分』の立場からこの怒りを眺め、それにエネルギーを送ることをやめた。すると私の中の『怒り』のエネルギーは『愛』のエネルギーに変わった。私はその不思議なプロセスを大いに楽しんだ。」ということになろう。

 

この様に、非瞑想者にとっての「自分自身」とは「自分の思考」のことであるが、瞑想者は「自分の思考」と「自分の本体である『意識そのもの』」とを明確に区別している。

 

しかし、実社会においてこの二つの区別は曖昧なことも多い。

唐突だが、今ここで「オオアリクイについて意識して」と言われたら、あなたはどうするだろうか?

ここがサバンナでない限りオオアリクイは存在しない。そこであなたはオオアリクイについて色々と「思考」を巡らすこととなるだろう。

この様に、「意識」と「思考」は日常生活において混同されることも多い。しかし、瞑想者からみるとこの二つは天と地程の違いがある、全くの別物であることが分かって頂けると思う。

 

3.「意識」の感覚的把握

 「瞑想における意識」すなわち「意識が意識自身を意識している」状態になった場合、人はどの様な感覚を持つのだろうか?

それは通常の日常生活では味わう事のない感覚であり、人によってはこれは衝撃的な感覚で、その人は「私は悟りを開いた!」と思うかも知れない。また、別の人にとっては「うーん、分かるけど、これってそんなに大したものなの?」という懐疑的な感想を持つかも知れない。

「瞑想における意識」の状態は個人差はあるが次の様な現象を伴う。

 

・松果体部分へのエネルギーの集中

・前頭葉・頭頂葉の静まり・清澄感

・思考の減少

・呼吸の沈静化(1〜3回/毎分程度)

・深い寛ぎ

・エネルギーの下降(丹田の充実)

・エネルギーの沸き起こり(丹田〜胸にかけて)

 

上記において通常一番新鮮な感覚は「思考の減少」であろう。

一般的な人間は「思考」を「自分自身」と思っている。しかし、瞑想における意識の状態になると、その「自分自身」である「思考」がどんどん減っていく。人によっては、深い谷に飛び込む様な恐怖を覚えるかも知れない。それでこの時点で慌てて思考を始めることもある。「まずい、このままでは自分が無くなってしまう!何でも良いから思考しなければ!」と焦ってしまう。

しかしここで落ち着きを取り戻して、思考が無くなる過程に身を任せてみると、それは今まで経験したことのない「深い、根底からの解放・寛ぎ」であることが分かる。

 

一度これを経験してしまうと、今まで「通常」と思っていた自分の内面状態がひどい「束縛」であったことが理解される。人はまたその状態に入ることを渇望する様になる。そうなればそれからは内面的苦闘の日々が始まる。

「知ってしまった人」は「瞑想における意識」の状態を渇望するが、現実の様々な出来事がそれを許さない。瞑想者は大きな欲求不満に陥り、それは「瞑想における意識」が日常的に継続する様になるまで解消されることは無い。

 

また、人によっては「私は悟りを開いた!」と満足してしまい、その意識を定着させる為の修行を怠り、ただの「悟り自慢」の種にしてしまうかも知れない。この場合は返って「一瞥」してしまったことが弊害となっている。瞑想者は早急に自分の現状を把握し、「意識」の状態が自分の日常生活においては少しも達成されていないことを自覚すべきである。一瞥の様な単なる「体験」に大きな意味はなく、その状態を「存在」として常に表現し続けなければ本質的な意味は無いことを知るべきである。

 

どちらの場合も、「瞑想の意識」は彼に大きなインパクトを与えた衝撃的な体験となった訳である。

 

 これとは対照的に、「こんな感覚大したこと無い」と思う人もいるだろう。

何故ならその感覚は生きている限り常に「思考の背景」として味わっている感覚でもあり、あまりにも「当たり前」過ぎて何のインパクトも与えないことも十分考えられる。禅者が悟りのことを「平常無事」と表現するのもその「当たり前性」に着眼したものである。

 

4.「自分」の認識における「意識」と「思考」の違い

 

非瞑想者の場合は、通常「意識そのもの」を直接認識することは無い。何故なら「意識そのもの」を認識しなくても十分「普通の」生活が送れるからである。非瞑想者の場合、彼が「自分」として認識している最上位のものは「自分の思考」である。

具体的に言えば、彼にとっての「自分」とは、「〇〇の名前を持ち、〇〇家という家の構成員であり、〇〇という組織に所属し、年間〇〇円の賃金をもらっていて、性格は〇〇であり、周囲の人間からは〇〇と思われているが、本当の自分は〇〇な人間である」という「言葉」であり「思考」である。

 

その特徴は、全て「他との比較」によって成り立っているということである。上記の〇〇の部分は全て「他との比較」である。

もし世界中に彼一人しか存在しなければ、上記の「自分」という定義は全く成り立たない。また、考え方や生活習慣や平均賃金が根本的に異なる異文化の国に行けば、上記の「自分」の定義も全く違ったものになるだろう。この様に、「思考」というアイデンティティは相対的なものであり、いつ何時でも、何らかの原因で根本から崩れ落ちる可能性のある脆弱なものと言える。

日本において「自分は〇〇だ!」と得意げに吹聴していたとしても、別の国に行けば「そんなものは何の価値も無い」とポイ捨てされてしまうかも知れない。非瞑想者は自分のアイデンティティが「どの世界で通用し、どの世界で通用しないか」を一生に一度は考えてみるべきと思われる。同じ日本国内でも、その所得額や地域によって全く違う価値観の世界が混在しているのである。

 

この様に、非瞑想者にとって認識可能な内面現象の最上位に位置するのは「思考」であり「言葉」である。彼にとってはこの「思考」が「自分自身」となる。これが彼の限界であり、「本当の自分」が「思考の奴隷」になっていることに気付けない状態にあり、その結果として根本的に満たされず不幸である。

 

 これに対して瞑想者は「意識」を「自分自身」として認識している。

この「意識」とは物事を認識する働きであり、以下の特徴を持つ。

 

・「物事を認識する」という以外の特性を持たない

・特性が無いので、どの人間においても同じであり、「個性」を持たない

・認識するだけで「判断・評価」はしない

・特性が無いので「変化」しない

・変化しないので「安定」している

・意識は様々な物事を認識するが、意識それ自体は完全に「静寂」な状態にある 

 

 非瞑想者は「自分は〇〇である」と自分の「個性」をアイデンティティの拠り所にしているが、瞑想者は「私は他の全ての人間と同じであり、変化せず安定しており静寂である」というアイデンティティを持っている。彼は自分に対して「誇り」や「自負」を持たない。彼にとって自分は他の全ての人間と全く同じなので、誇りも自負も持ち様が無いのである。

 

この、「誇りや自負を持たず、他人も自分も同じ存在である」という感覚を持つ事が、日常生活においてどれだけの「利益」をもたらすか想像できるだろうか? いや、「利益」というよりも「損失の回避」と言った方が良いかも知れない。以下の非瞑想者との比較でそれが分かるであろう。

 

非瞑想者:ある特定の分野において「他人に勝利する」ためだけに時間と労力と金銭を使う。

瞑想者:「他人に勝利したい」という動機が無いので、その目的では時間も労力も金銭も使わない。

 

非瞑想者:いつも「他人と比較した自分」を気にしており、それによって気分が乱高下し、落ち着く事が無い。

瞑想者:他人との比較に興味が無く、常に安定したアイデンティティを持ち、いつも静寂の中に居て落ち着いている。

 

非瞑想者:勝利の為に他人を傷つける事も厭わない。そもそも「他人に勝利する」ということ自体が「他人を傷つける」ということと同義である。

瞑想者:彼にとって「勝利」には何の価値も無いので、その為に他人を傷つけることは無い。

 

非瞑想者:「他人」とは自分にとっての「比較対象」であり「競争相手」であるから、基本的に他人には心を開かず懐疑し、自分を防衛する行動を取る。当然警戒された相手にもそれは伝わり、「負の感情の連瑣」が起こる。

瞑想者:「他人」とは「自分」と全く同じ「意識」であるから、根底的に他人に対して心を開いている。敏感な人はそれを感じ、「自分は受け入れられている、もしくは拒絶されていない」という感覚を持つ。

しかし一般的な人は自分を「意識」とは知らないので、表面上は瞑想者も「エゴ」や「思考」を持っているかの様にコミュニケーションをする。すなわち「演技」をしている訳である。

 

非瞑想者:自分の見た目や地位の為、他人の関心を買う為にお金を使う。

瞑想者:自分の見た目や地位、他人の関心といった「本質的」でない単なる「形」の為にお金を使うことはなく、その瞑想者のハートがある程度発達していれば他人の喜びの為にお金を使う様になる。

表面上は彼が自分の為にお金を使っている様に見えることがあるかも知れないが、その場合は自分に投資することが最終的に他人の喜びに繋がると見越して行動している。

 

 この様に瞑想者と非瞑想者の内面状態・判断基準は全く異なっており、瞑想者の言動を一般的に解釈してしまうと大きな誤解を招くことになる。