「瞑想学」の必要性

「心の中」は目に見えない。

 

なので、どんな「ウソ」でも「つき放題」である。それを証明する方法が無いからだ。

「私は〇〇の神秘体験をしました」

「私は悟っています」

「私は悟っていません」

「私は〇〇の能力があります」

「私は〇〇の能力がありません」

「私の霊的レベルは〇〇です」

スピリチュアル界には、この様な発言がどこにでも見られる。そしてそれを信じる人も多い。

また、発言している本人たちも、本当に自分にその能力がある、または無いと思っている場合が殆どである。

しかし、ここにスピリチュアル界の問題があると思われる。「スピリチュアル」と聞いて尻込みをし、「胡散臭い、騙されている、騙そうとしている、関わりたくない」と思う人が多いのも「心の中は目に見えない」ので「どんなウソをつかれているか分からない」からであろう。

 

自分を正確に把握し、本当にその能力及び資質がある、または無い場合は問題無い。

問題があるのは、自分の体験や能力を間違って評価してしまっている時だ。何しろそれを証明する方法が無いのである。

 

まず、自分の体験や能力を過大評価してしまっている場合がある。

この場合、良かれと思ってやった事が返って他人に悪影響となってしまう場合もある。また、本人にもっと成長の余地があるのに「自分はもう到達してしまった」と思い込んでしまい、自己研鑽とより高い自己実現への道を自ら閉ざしてしまう事にもなりかねない。

 

成長途中の人間に共通しているのは「真の自分」よりも「エゴ」の力が強いという事である。

この「エゴ」はそれ独自のアイデンティティを持たないので、何かを他の人間と比べてその優位性で己の存在確認をする必要がある。もし社会的に無力な人間がスピリチュアリティの分野で「エゴ」を満足させようとするならば、必然的に「自分はスピリチュアルの分野において他の人間よりも優れている」という認識の方向へ向かい易い。

これは本人、関係者、さらにスピリチュアル界においても弊害が大きい。まず本人が自分に満足してしまう事で社会的・スピリチュアル的な成長が止まる。そして関わる人間も自分のエゴで傷付けてしまう。さらに社会において一部言われている「スピリチュアルは社会における虚弱者の逃避場所」という言葉を裏付けてしまう事になる。

 

それとは対照的に、自分の体験や能力を過小評価している場合も問題がある。

もう他人に影響を及ぼし、導いても良い段階に居るにも関わらず、「私はまだまだ、人を導くなんてとんでもない」と思い込み延々と修行を続け、結果として自分に課せられた「聖なる役目」を放棄してしまう可能性がある。

今は地球を挙げての「急成長の時代」に入っており、導き手はいくらいても足りない位だ。能力のある者はどんどん他者に働きかけ、地球規模での「意識の上昇」を促さなければならない。一人で黙々と修行している時代では無いのである。

 

私がこう考えたのは、自分自身の苦い経験から来ている。

19才の時、突然の意識の変容を経験し、その状態は程なく消え去ったにも関わらず、私はずっと「自分は悟っている」という自負を持って生きていた。実際は社会に溶け込めず、人間関係もお粗末なものだったが、「私は悟っているから、現実社会ではどうなってもいいのだ」という間違った考えを持ち、現実社会で努力することを怠り、結果として周囲の人間に大きな迷惑をかけていた。

これは自分の能力を過大評価してしまった例である。

 

また、最近はその逆に自分の「過小評価」を諭される事が多くなっている。

社会人になって数十年後、流石に現実社会での自分の評価を理解し、いつからか自分を卑下する習慣が付いてしまった。19才の時の出来事を「第一の変容」とすればここ数年で「第二の変容」が起こり、自分が思っている以上に意識の変遷が進んでいたのだが、自分は全く自信が無く、「私などスピリチュアル界に入る資格もない」と思い込んでいたのである。実際にスピリチュアルに興味のある他人と初めて直接話をしたのは、19才の体験から実に20年以上経ってからであった。プライドが高かった私は、「自分の意識レベルが低い事をすぐに見透かされてしまう」であろう事に耐えられなかったのだ。

 

しかし最近になってスピリチュアル界の様々な人々と直接ふれ合う機会が増え、意外な高い評価をもらう事が多くなった。その人数がどんどん増え、しかも私が能力的・人格的に尊敬している人達からも「同格」に扱われる場合もあり、「あの人がそう言うなら信じてみようかな」と思いぼちぼちと活動を始めた所である。

私は今でも自分の能力に自信は無いし、もっと上の人などいくらでも居ると思っている。早くそういう人が現れて、私の「仮自信」を気持ちよく打ち砕いて欲しいものだ。

 

上記の様に、現実の能力と自分が思っている能力が違った場合は様々な弊害が起こる可能性がある。

「心の中は見えない」のは確かであり、読心能力が無い限りはスピリチュアル界は完全な「主観的」世界であるが、私はここにある程度の「客観性」を持たせたいと思っている。「ある程度」とはどの位かと聞かれたら、「実生活で役に立つ程度」という事になろうか。即ち、その尺度を使えば「私は、又はあの人は悟っている・いない」等の判断がある程度付き、「誰に教えを乞うか」「私はもっと修行の余地があるのか」と行動の指針を決める助けになる様なものを作りたいと思っている。

 

最終的な目標はいつも同じである。

 即ち、地球人類全体の意識レベルを上昇させ、危機に瀕している地球を救い、もっと住み易い環境を作る事だ。