「超実用瞑想」の大極的目的

瞑想の大極的な目的は「地球の人類を現在よりも高い意識状態に導く事」である。

これを言い換えると、「現在の地球の人間における過度の『エゴ』の働きを弱め、『本来の自己』の働きを強める事」とも言える。

それによって以下の状況を回避・創造することを目標とする。

 

1.人類全体としてこのままの意識状態だと陥ってしまうかもしれない「危機」を回避する事。

2.地球全体として、人間社会や各生物や環境が調和した状態になっていく事。

 

社会を変えるにはその構成要素である個人の変革から行わなければならない。

社会制度を変えても個人の内面が変わらなければ実効性は弱い。それよりも社会において個々人の変革が進んでいき、それによって既存の社会制度が現実に合致しなくなり自然に社会制度が変わっていく方が望ましいと思われる。

 

その為の「個々人の変革」を行うのが「超実用瞑想」の目的である。

 

 

目的の達成方針

「超実用瞑想」においては上記目的の為に個々人に「働きかけ」を行う。

その方針は以下とする。

ここで言う「個々人」とは不特定多数の読者・視聴者・修行者を指す。

「個人」とはある特定の一人の対象者を指す。

 

1.まず個々人に対して「瞑想の有用性・実用性・必要性」を提示する。

2.提示を受けた個々人が瞑想するかどうかは本人の意思を尊重する。

3.瞑想の意思がある個々人に対して、その具体的方法を無料で提示する。

 

具体的には以下となる。

 

1.瞑想の有用性・実用性・必要性の提示

 

瞑想とは「何もしない」事であるが、瞑想で得られた意識状態は生活の全てのシーンで極めて有効な働きをする。

その事を提示してまず「生活の中で役に立つもの」として瞑想を捉えてもらい、次いで瞑想の「必要性」についても言明する。

 

他者を犠牲にする事の無い、無条件に継続する「真の幸福」の獲得の為の手段として瞑想は「必需品」とも言える。全ての人間は無意識のうちにこの「真の幸福」を希求して生きている。

現代においては瞑想はその「魂の欲求」に気づかせ、それへ近づくほぼ唯一の手段とも言える。なぜなら殆どの瞑想はこの「真の幸福」へ近づく事を最終的なターゲットにしているからだ。特にこの「超実用瞑想」においては最初から「真の幸福」のみをピンポイントに直接体験し修練するものであり、熟練者にとっても「最後の瞑想」となり得るものと考える。

 

瞑想の他にも様々な道がある。

音楽やダンスや絵画などの芸術活動、介護や福祉等の奉仕活動、また仕事そのものを高い意識を持って行う事も自己の「修行」となり得る有効なものであり、必要なものである。

しかし、これらの活動は「直接に」本来の自己を認識する事を目標とはしていない。なのでその活動をしていても様々な「雑念」が邪魔をして有効な「修行」にならない場合もある。

そこでこの活動と並行して瞑想を行い、自分が「何を目指しているのか」をはっきり自覚する事が有効になってくる。それによってその活動における正しい「心構え」を持つことが出来、「修行」にならない無駄な時間を減らす事が出来る。 

 

 

 

2.各個人の意思の尊重

 

瞑想は極めて繊細な精神的作業であり、それを「実用段階」にまで高めるには本人の「意欲」の存在なしには不可能であると思われる。

「強制」は初めから精神的抵抗を生み出し、瞑想に対して否定的な先入観を持ってしまう。この「否定的な先入観」は瞑想に悪影響を与え、瞑想の効果を無効にしてしまう可能性が高い。この場合は「やっぱり瞑想なんて役に立たない」と言う事を証明する為に瞑想する事になる。その瞑想は必然的に「粗探し」になってしまうであろう。

 

瞑想を始めるということは、現状の自分の一部を否定して新しい自分へと「変化」する事であるから、そこには大きな「動機」が必要となる。「何となく」瞑想を始めてもその成果が出ないとすぐに中断してしまう。「今のままではまずい! 瞑想で自分を変えなければ酷い事になる!」と言う「切迫感」が必要となる。

 

しかし人間には「現状維持バイアス(偏り)」という精神的傾向があり、例えどんな惨めな状況であってもその状況を維持しようとする精神力が働いている。「今まで通り、いつもの通り」が一番「楽で快適」と思ってしまうある種の精神的「偏り」である。この「現状維持バイアス」を打破するのは本人の意思ではどうしようもなく、社会的・経済的・精神的な「危機」が来なければ打破できない事が多い。

2021年の現在においては、疫病の流行や大きな災害やネット環境による社会の急激な変化などによりこの「危機」が今までより訪れ易くなっており、ある意味瞑想を始める「絶好のチャンス」とも言える。

 

また、これからの社会においては「瞑想的資質」を持たない人間は淘汰されていくとも考えられる。なぜなら「瞑想的資質」を持つ事は人間としての自然な精神的進化の過程だからであり、いつまでも「知識」や「思考」や「エゴ」にしがみつき「真の自己からの自由な声」を聞けない人間は逆に生きづらい社会になっていくと思われる。

 

 

 

3.瞑想の意思がある個々人に対しては、その具体的方法を無料で提示する。

 

詳細な瞑想方法についてはネット上で一般公開し、誰もが閲覧可能な状態にする(著作権は筆者が持つ)。

過去においてこの類の精神的技術は「秘伝」とされ、その知識を得る為に探求者達は一生をかけなければならない事も多かった。しかし今はこの「秘伝」がネット上で一般公開され、誰でも閲覧が可能な時代となりつつある。

 

また、この「秘伝」を知り、修行によってある程度の「結果」を出せた者はこの「秘伝」を「飯の種」にして有料で提供する事も多い。それは当人にとって必要な事であり、その「秘伝」を維持していく為にも有効な事である。さらに、自分が払った対価の分だけ「本気」になるという効果もある。しかし、その「秘伝」が一般に伝わり難くなるという弊害もある。

 

現代は精神的知識・技術においても今までに無い新たな局面に入っている。

過去においてはこの「知識」を得る為には特定の団体に所属し、一生をかけて修行しなければならなかった。それでもその団体の持つ1種類の知識しか得られなかったのである。

しかしネット環境の普及により、現在はその様な「団体への所属」や「一生をかけた修行」無しで簡単に何種類もの知識が手に入る様になった。「知識の融合」の時代になったのである。

過去において一生をかけた一種類の知識が、現在においては「出発点の一つ」に過ぎないものとなっている。各人はそれぞれ自分に合った道を選べるし、複数の知識を組み合わせて使う事も出来る。もちろん、指導者の元に行わなければ危険な物になってしまう技術は隠されなければならないが、それ以外の知識は「出し惜しみ」をしている時代では無くなっている。

各人が最初から自分の持つ「最高の知識」を提供し、それを皆の「出発点」にする新たな時代が始まっている。

 

この世界の仕組みの一つは、「与えた分だけ得る事が出来る」と言う事である。むしろ「与える」事だけを考え、「得る」のは唯の「オマケ」程度の意識が丁度良いと個人的には思っている。

筆者の持つ知識を今の瞑想に取り入れても良いし、他の知識を補完・説明する手がかりとしても使う事が可能と思われる。各人が自分の中で様々な知識を弁証法的に取り入れてそれぞれの「個人的な聖典」を創造していく新たな時代に入ったのである。