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お点前デビュー顛末記(若おかみ)

お茶を習い始めて2年目。ついにこの日が来た。

お茶会でお点前をするのである。

舞台は先生宅の茶室で催される初釜。新年を祝う茶会で、薄茶を点てる役目を仰せつかった。

いつかはやるんだろうなあと思っていた。そろそろかな、とも思っていた。だからそんなに驚きはしなかった。しかしそう言われれば多少は気負う。稽古にも熱が入る。なかなか上手くならない袱紗さばきを家で練習したりする。

 

本番が近づいた。稽古場に通って特訓したいところである。

しかし。

初釜はちょうど、道楽宴其之一「たましいが共感するとき」ライブツアーの真っ最中にあたる。準備に忙しい。アーティストも来る。バタバタなのである。

お点前そのものは先月から習っているものなので、あまり心配はない。頭の中でシュミレーションを繰り返す。あがらなければ大丈夫、と自分に言い聞かせる。

 

お茶会は前日の準備から始まる。お点前をする者や水屋を担当する者数人が集まり、茶室の掃除やしつらえをする。それは知っていた。朝から始めるのだから昼頃には終わるだろうと思い、リハーサルをしても夕方のライブには間に合うだろうと踏んだ。

違っていた。

料理をするのである。

正式な茶会は、懐石と呼ばれる食事、濃茶、薄茶のコースで構成される。その懐石の準備を、他ならぬ自分たちでするのであった。

先生の初釜には欠かせない料理がある。納豆汁。招かれる客人には恒例の納豆汁を楽しみにしている人も多い。納豆で作ったとは思えぬ上品な汁物だ。

しかしこの納豆汁、作るにはなかなか手強い。あのネバネバの納豆をすり鉢ですり潰すのだ。すりこぎに絡みつくネバネバに逆らい粒がなくなるまで混ぜ続ける。押さえていなければすり鉢も回転してしまう。

納豆汁だけではない。酢の物、小鉢等々下準備をする。もちろんお茶の準備もする。リハーサルをする時間などない。

終わってライブ会場に着いたのは、開演直前だった。

 

翌朝、色無地の着物を着て先生宅へ行く。準備は昨日しっかりやった。薄茶を点てるのは午後。水屋の隅でおさらいしよう。

甘かった。

懐石を運べという。お運びはやったことがない。お膳の持ち方だけ教わって茶道口へ。前に座ったFさんがこちらを向いて言う。

「私の真似をして下さい」。

頼もしい。しかし戸が開けられて気がついた。

Fさんの背中しか見えないのである。何をどうしているのかさっぱり分からない。

しかし突っ立っているわけにはいかない。これまでに見た、数少ないお運びの場面を思い出し、なんとなーく客人にお膳を渡し、なんとなーく下がって振り向いたら、次のお膳を運んできたKさんとぶつかりそうになった。お茶室は狭いのだ。

 

そんな調子で運んだことのない菓子や濃茶を運び、空いた器を下げ、瞬く間に薄茶の番が来た。来てしまった。

茶道口に座り、膝前に仕込み茶碗と棗を置く。室内から聞こえる先生の合図で、戸を開ける。開けようとする。

開かない!

戸に手がかりがない。桟を探すがそれもない。

戸口に指先を入れようとするが、ぴっちり閉まって動かない。

腰板にはめてあるガラスに両手の指を押しつけ、摩擦力で開けようとする。

…開かない…なぜ…

夢中で気づかなかったが、この時戸が互い違いに引かれており、茶道口と反対にあるべき戸が目の前にあったのだ。

先生の声がする。

「モトコさん」

…開かない…

「モトコさん、始めて」

…開かない…

「モトコさん、早くして」

…開かない…!

気づいたKさんが加勢してくれた。20本の指先の摩擦力で戸が開く。

…開いた…

全身の力が抜けた。だがお点前はこれからなのである。

…落ち着いて…落ち着いて…

ゆっくりと点前畳に座る。釜の湯が熱く沸いて音をたてている。頭の中もジンジンしている。

当流では釜の蓋を開ける前に、畳んだ袱紗を柄杓の柄の上でクルッと回転させる技がある。

袱紗が崩壊した。

柄杓の柄の上でタランと垂れてしまった。

このままでは熱い釜の蓋を取ることができない。左手には柄杓を持っている。右手でどうにか袱紗を丸める。

蓋の摘まみを持つ。袱紗が崩れる。袱紗の端が釜の中に入った。

もういい。どうなってもいい。

着物の裾も乱れてきたが、そんなことはどうでもいい。

とにかくお茶を点てることだけ考えよう。このお茶は正客のM先生のところへ行く。ダマにならないように、飛び散らないように…。

 

M先生は「美味しい、美味しい…」と言って飲んで下さった。涙が出そう。こんなになりふり構わずお茶を点てたのは初めてだ。

 

そんなこんなのお点前デビューなのであった。