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茶道入門 2

「イベントの準備」は、「プレゼントを選ぶ」事と似ている気がして、私は大好きです。

相手に合わせて選んだものがピタッとハマって、予想以上に喜んでくれた時は、むしろあげた方が「そんなに喜んでくれてありがとう」と言いたくなります。

もしかしたら、「茶の湯」の始まりも、そんな事だったのかも知れません。

今考えてみると、あんな大掛かりで本式な茶事の準備に関われた事はラッキーでした。(茶会後のお客様の感想で「久しぶりの本式のお茶会でした」というのも多かったそうです)

その時はまだ入門前でしたが、ヨメが習っている玉川遠州流の、支部としては最大規模の茶会の準備🔨の手伝いをさせて頂く事になりました。

仙台市所有の大きな庵を借り切って3席(濃茶、薄茶、煎茶)作り、濃茶は離れの茶室を使います。

初めて見る茶席の裏側はとてもオモチロく、貴重なお道具にはなるべく近づかない様に気をつけながら、文化祭の準備みたいな雰囲気を楽しんでいました。

当日のお昼の買い出しが終わるとひとまず私の仕事は無くなり、先生から茶席に出ても良いとのお達しを頂いてまず薄茶席へ。

フリー客の集りである塩釜神社の観桜茶会は出た事が有りますが、今回は招待客のみ。お客様のレベルが違います。

ひたすら周りの方々の真似をしたつもりでしたが、今思えば素人丸出しで恥を振りまいておりました。

何をどうしたらいいのか、全然分かりません。

(お菓子が一番最初に来ちゃった!どう取ればいいんだ?!)

(あ、次の人に会釈するの忘れた!)

(足が痺れた!崩していいのか?)

次々起きるパニックを和らげてくれたのは、正客様と亭主の会話でした。

わざわざ北海道からいらした老婦人の正客様で、その佇まいが何とも品が良く、謙虚でありながら大らかで優しい空気を醸し出して場を和ませて下さるその様に、すっかり感服してしまいました。

特に最後の濃茶席での先生との会話は、お二人の経験と知識とお人柄と茶道への思いとが見事に調和した、素晴らしく和やかで深く親しみ易いもので、私はその雰囲気にすっかり魅せられてしまいました。

・・・少し脱線しますが。

ある事を突き詰めれば突き詰める程、対等な話相手は少なくなっていき、寂しい思いをします

「士(武士)は己を知る者の為に死す」という言葉がある通り、自分の事を知ってもらうと言うのは、その人の為に死んでもいいと思える位の嬉しさだと思います。

裏を返せば、高みに行くほど、それ程の話が出来る相手というのは殆ど居ない、普通は一生見つからない、という事も言えると思います。

ところが。

見つかるんです!

茶道の世界では。

もちろん、高い所に行く程対等の相手は少なくなっていくでしょうが、茶道の世界ではそういう相手に巡り会える可能性が、他分野の世界に比べて格段に多いのでは、と思いました。

その理由の一つは、茶事の重要な要素の中に「亭主と正客の会話」が組込まれていることです。

例えば武道では、相手と闘いこそすれ、「会話」が為される事はありません。

濃茶席での先生と正客様の会話を聞いて思ったのは、この会話の質や内容が、茶席の出来栄えの大きな部分を占めるのではないか、という事でした(実際私が一番感動したのはこの会話でした)。

会話というのはある意味その人の「全て」が現れる訳ですから、茶席での会話を磨こうと思えば自分の「全て」を磨かなければなりません。

手前の技術・知識は勿論、お道具や花の知識、日本の季節の捉え方、また掛軸には禅語が多いですから禅の知識や経験、お道具・軸は古いものが多いので歴史に関する知識、作品にまつわるエピソード、それらを全部学んだ上で、さらに人間的な研鑽も必要なのかな、と思います。

そのような錬磨を重ねた2人の人間が、茶席という最高の舞台で、お互いを尊重し礼儀を守りながら、その場に合わせた融通無碍な会話を楽しむ。そしてそれをやはり研鑽を積んだお客様達が拝聴する。

1対1の密室の会話では返って照れ臭くて話しにくい王道的な話や観念的な話も、この舞台の上では自然に流れていきます。

こんな機会は、日常生活では滅多に無いのではないでしょうか。

「茶道、スゲェ!カッケェ!」

この時私は、全てを含んだ総合芸術としての茶道の凄さに初めて目覚めました。

続く