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「ありがとう」コレクター

昨日は忙しかった。いや毎日勝手に忙しくしているのだが。

 

1日中駆けずり廻って重い野暮用を済ます間に、次々電話がかかってくる。スマホを見ればいつも通り1日中誰かがメッセージを送って来る。仕事の電話は1件もなく、友達からの相談だったり雑談だったり近況報告だったり。1年前は考えられなかった事だ。

 

1年前の今頃、私はただ孤独の中にいて、一人で勝手に苦しんでいた。親しい友人など一人もいない。仕事をする気力もなく、サボってばかりいた。当然同僚の信頼などなく、会社にいる時間を1秒でも短くしたくてたまらなかった。

 

久々に実家に帰って母に近況報告をすると、しみじみと言われる。

「あんた、変わったねぇ〜」いや、カーチャンだってずいぶんと細く弱くなって変わっているのだが。

「前は友達の話なんかしなかったのにねぇ〜!」当たり前だ。いない人の事など話せない。

「昔からあんたは引っ込み思案で・・・」そう、私は極度の人見知りだったのだ。

 

ここで、「私はコレで変わりました!」という話をする気はない。それはこのサイトのどこかに書いてある、多分。

 

重い野暮用をとりあえず済ませて帰途につく。

ふぅ。息を吐きながらスマホを見てると、ふと気づいた事があった。

 

「ありがとう」

 

この言葉がそこかしこに見えている。

主に「若なかま」達からのものだが、1日6「ありがとう」。電話でも2回言われたから計8「ありがとう」である。昨シーズンの1年分位を1日で消化してしまった。1年前は良く「お前はなぁ・・・」とか「もっと〇〇しろ」とか言われたものだが、「ありがとう」などとは殆ど言われた事がない。成程変わったものだ。

 

自分としては遊んでいるだけで、「人の為になろう」とかは興味が無いし、その場その場でただ「面白い方向」へ動いているだけなのだが、不思議と「ありがとう」が集まってくる。多分これは自分の特性などではなく、人間本来の特性なのだろうと思う。人は本来人が好きなのだ。人の核までいけば、そこに「嫌い」という文字はない。「嫌う」という事を知らないのだ。

生まれたばかりの赤ん坊に「人を嫌う」という高等技術はない。「人を疑う」という高等技術もない。それは後から学習された、「本来人間に無いもの」だと思う。

 

「いや、そんな事はない。嫌ったり疑ったりしなければ、この世界では生き残れない。それは本能なのだ。」という意見ももちろん正しい。・・・この地球上においては。

 

私は人間の形を取る前の「本来の自分」の事を言っている。

「そんな事覚えているのか?」と聞かれれば、「覚えていない」と答えるしかないが、この肉体が自分の本体でないことは感覚で分かる。簡単だ。どんどん引いていけば良い。誰でもできる。

「肉体は私ではない」「感情は私ではない」「思考は私ではない」「〇〇は私ではない」・・・これ以上は引けないもの、それが「私」だ。もちろん全ての人と共通である。考え得る限りもっとも「普通」のものである。それが「私」だ。

 

探求者にありがちだが、「本来の私」を「特別」というベクトルで探すという間違いを犯す。ラマナが「真我」というとき、「それはラマナがそうである様に崇高で得難い尊いものである」と誤解してしまう。違う、断じて否。ラマナは、もっとも「普通」の人間である。「超普通」は「神」と同義なのだ。

 

あらゆるものを削ぎ落とせば、残るのはただラマナの様に尊い存在なのだ。その尊い存在様が、周りに沢山いらっしゃって、皆ご自分の事を「くだらない奴」とか「価値の無いやつ」とか「オレすげぇ」とか思っている。誰もが皆神なのに、誰も自分を神以下だと思っている。この集団錯覚の狂った世界に正気の人間が居れば、それは神か狂人にしか見えないだろう。

 

話がそれたが、私が人に何か手助けに見える様な事をしているとすれば、それはただ自分自身にしていると思っている。そうしたいからしているだけであって、自分の欲求を人を使って満たさせてもらっているのだ。それはある人にとっては美味しいものを食べる事だったり、旅行に行く事だったりするだろう。それと全く同じである。

「美味しいものを食べてくれてありがとう」「楽しい旅行をしてきてくれてありがとう」と言われたらどんな気持ちがするだろうか。

「いや、お礼をいうのはこっちだよ?? 美味しいものを食べさせてくれてありがとう!」と普通はなるだろう。

「ありがとう」を言われる度、それと同じ奇妙な気分を味わっている。

しかし、「ありがとう」という言葉はいいものだ。

私は日本語が大好きである。世界の中でも飛び抜けて奥が深い言語だ。特に古代において「言霊(ことだま)」が実際に生きていた時代の日本語の凄さは、想像を絶するものがある。今でも神道では「祝詞(のりと)」として言葉が神の働きをしている。日本人の優秀性の多くが日本語に由来していると思う。

 

その日本語の中でも、一番の言霊を持つ言葉が「ありがとう」だと言う。

 

私がヨメと付き合い始めた時に驚いたのが、買い物で支払いを済ませた後に店員さんにいちいち「ありがとう」と言う事だった。

「え? 何で? 普通向こうが『ありがとう』でしょ?」と最初は違和感を感じたものだが、だんだん慣れてくるとそれがとても心地よいものだと分かってきて、自分も真似して一時期「ありがとう」を連発したものだ。続かなかったが。

 

「ありがとう」と言うと何か体の中が浄化されていく感じがする。

他に感謝することはある意味自分にとっては屈辱でもあるはずだが、その小さな自我の抵抗を超えて「ありがとう」を発信すると、それは自我を超えて空間に広がっていき、自分の中の真実が拡大していく。感謝するのは他人のためではなく、自分の拡大の為だと思う。

 

「全てに感謝せよ」と良く言われるが、その理由が明かされていないので誰も実行しない。「全てに感謝する」のは「自分が一番トクをするため」なのだ。「ありがとう」と言うだけで、どんどん自分が拡大し、周囲の人も引き寄せられ、皆が自分に色々としてくれる様になる。

その生きた実例が私達の茶道の先生である。

先生はいつも「ありがとうございます。」と一音一音、心の底から気持ちを込めて仰る。その「言霊」の力は素晴らしく、言われた方が自然に頭が下がってしまう。先生の周りには常に老若男女が集い、笑顔の輪が出来ている。私達もこの先生に惹かれて茶道を習い始めたし、若い生徒の殆どもその通りである。今時こんなに若者が多い教室も少ないだろう。他教室の方に羨ましがられたりもする。

「ありがとう」の力をまざまざと見せつけられた思いである。

そんな事を思い浮かべていると、「若なかま」の一人から電話がかかってきて、私の重い野暮用を片付けてくれると言う。しかもそれによって彼も大きなリスクを負わなければならないのだ。

「ありがとうございます!」

私のこんな言葉ではまだまだ軽い。先生には遠く及ばない。軽いがこれしか出てこないし、言えない。

その中に籠め切れない思いが目を潤ませる。しかし運転中だから涙腺を調節せねばならない。大変だ。おまけにマニュアル車なのでシフトチェンジもしなければならない。電話と感謝と涙腺調整とギヤチェンジでアルトワークスの車内はしっちゃかめっちゃかである。

 

電話が終わると、私の肩が一気に軽くなった。

「地球で生きることは難しい。しかしその難しさの中に楽しさがある。」

と「宇宙人ジョーンズ」の気分で思ってみたりする。

ありがたい。

ありがとう。

さて冒頭の写真は私の「ありがとうコレクション」である。感謝の言葉ほど力になるものはない。旧家にはよく鴨居に感謝状の額がかけられているが、その気持ちは良く分かる。

しかし感謝状の欠点は、「ありがとう」と書かれていないことである。理解するにはその文面を読んで、頭で知的に理解しなければならない。感動するまでに「文字→知性→ふーん→感動」と言う長い経路を辿らねばならない。感動に行き着く前に「ふーん」で終わってしまうケースも多々見られる。

その点、私の「ありがとうコレクション」は、直接「ありがとう」の文字が書かれている分かり易いものである。すぐ感動できる。その経路は「文字→感動」と最短である。

しかし書いた方もまさかこんな風に飾られているとは思いもしないだろう。著作権にも触れたかもしれない(名前は消してあります。気になる方はご一報を)。

 

こけしや御朱印や「いいね!」を集めるのも良いが、「ありがとう」を集めるのは最高の贅沢かもしれない、と思っていると、

「また壁の面積を減らして!」とヨメに怒られた。