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うちの次郎さん

 

「ホンモノを持つ」ということ。

 

ホンモノは、飽きない。

これが「ホンモノ」の定義の一つだと思う。

 

「ホンモノ」は当然高い。でも、「ニセモノ」に飽きてしまって何度も買い替えるよりは結局は安くつく、どころか、返って大きな利益を得るのである。

私の「モノの価値」の考え方は以下である。

 

1.その「モノ」の満足度を1日の金額で表してみる。

 

 例:この絵を1日壁に掛けるのにいくら出しても良いか?

   A:「ニセモノ」の5千円の絵=1日10円の価値

   B:「ホンモノ」の5万円の絵=1日100円の価値

 

2.「1日の値段」に「使うであろう日数」をかける

 

 例:上記の絵を100日飾るとする

  A:10円×100日=1,000円  →100日後、千円分の価値が出る

  B:100円×100日=10,000円 →100日後、1万円分の価値が出る

 

   さらに1,000日飾る場合は

  A:10円×1,000日=10,000円 →1,000日後、1万円の価値・・・だが、実際は150日で飽きてしまって外した。この絵の価値は結局 10円×150日=1,500円だった。価値1,500円−買値5,000円=−3,500円、3,500円の損失!

  B:100円×1,000日=100,000円  →1,000日後、10万円の価値が出る。価値10万円−買値5万円=5万円の儲け! さらに、いくら見ても飽きないので、結局3,000日飾り続けた→100円×3,000日=300,000円 →25万円の儲け!!

 

さあ、もう明確であろう。

え? 返って分かりにくい? スミマセン。

 

つまりこういう事であります。

Aの「ニセモノ」は5,000円で買って、結局その価値は1,500円でした。3,500円の損失です。あらら。

Bの「ホンモノ」は50,000円で買って、長く毎日使う事で300,000円の価値を生み出しました。25万円の儲けです。ヤッタネ!

 

長い目で見ればこうなる。一言で言えば、

「いいモノを買って長ーく、毎日使おう」という事である。

 

え? 早くそれだけ言って? スミマセン。

 

この金城次郎の湯呑み?ペン立て?は骨董屋で32,000円で手に入れて、やっぱりヨメに怒られたが、それから毎日ウチのちゃぶ台の上で活躍している。もう2年以上になるだろうか? 全く飽きないどころか、見れば見る程愛着が湧いてくる。

この湯呑みの使用料を私は1日100円くらい出してもいいと思っている。上記の計算でいうと、100円×現在約700日=70,000円の価値を生み出している。38,000円の儲けである。これから一生使うだろうから、10年後には100円×36,000日=3,600,000円、360万円の利益と考える。「飽きない」というのはこれだけの価値がある。

 

もう一つ、私が自分の「モノ」に求めるのは「波動の良さ」である。

全ての物はそれ独自の「波動」を発信している。「質感」とか「雰囲気」と言い換えてもいい。

その人の「持ち物」は全てそれ独自の波動を発して、持ち主に影響を与え続けている。毎日使う物なら尚更である。

 

なので私は自分の持ち物には格別の気を使っている。手に入る範囲で一番良い波動を発しているものを買う。当然高い。

でも、それは結局「自分自身」となり、自分の人間としての「存在の質感」を形作る重要な要素となるのである。

 

金持ちは一目見れば分かる。

それは「金持ちの波動」を発しているからであり、その波動を形作っているのは彼の持ち物なのだ。瀟洒(しょうしゃ)な洋館に住み、運転手付きのベントレーで毎日出かけていれば、その人間にはその家や車の精緻で質の高い波動が伝播し、それが周囲に発せられるのである。

結果として、その人間は至る所で重要な扱いを受ける事になる。一目見て、「この人は高い地位にありそうだ」と分かるからだ。

もちろん、「本当の金持ち」はその波動を控えめに包み隠しているが、それでも分かる人には分かってしまうのである。「彼に『投資』すれば何か返って来そう」だと。

それで皆彼を丁重に扱い始める。

 

逆に、自分の持ち物に全く気を使わず、整理整頓も掃除もしない人間も一目見れば分かる。

これでは誰でも、「彼に『投資』しても何も返って来ないどころか、返って色々奪われてしまう」と感じるだろう。

こんな人間の前からはいち早く退散したい所だ。

 

私は毎日、次郎さんの波動をもらっている。

その波動は朴訥だけど洗練されており、土を通して沖縄の大地の息吹が感じられる、素晴らしい波動である。

見る角度によって様々に表情を変え、不思議な事に「魚が好きな時期」「海老が好きな時期」「間の模様が好きな時期」と周期的に変わり、飽きる事がない。

 

また、これは秘密なのだが、これは実は金城次郎の最高傑作ではないかと思っている。

この線の一本一本の勢いを見て欲しい。

どの線ものびのびと自由に引かれており、何の作為も抵抗も感じられない。特に魚のヒレの線は全く勢いが削がれる事なく、最後は限りなく細くなって虚空に消えていく。ヘラの使い方が素晴らしい。白眉である。

 

他のどの作品を見ても、ここまでのびのびと気持ちの良い線は見られない。これを作った時の金城次郎の心境はよぼど解放されていたと思われる。

金城次郎の作品は、大作になればなるほど「作品として完成させよう」という意図が働き、全体の構成に気を使いながら線を引くために勢いが削がれてしまっている。「計算」が見えてしまう線である。

 

思うに、次郎はこの作品を「片手間」に作ったのではないか。

この絵を見ると、あまり「魅せよう」とか「完成させよう」という意図が感じられない。高値で売れるとも思っていなかったのではないか。それで「どうせそんなモノだから」と、緊張感から解放されて好き勝手に、ほぼ手癖だけで描いたのではないか。

 

そう思える根拠がある。

この中途半端な大きさである。

湯呑みにしては明らかにでかい。普通の茶碗と比べると良く分かる。ペン立てにちょうど良い高さだが、金城次郎がペン立てを作るとも思えない。

 

強いて考えられるのは茶道で使う「火入れ」という道具だが、この火入れを使って道具組みをするのはかなりの技と遊び心を必要とする高度なものとなってしまう。並の茶人なら手を出すまい。

これではあまり高値は望めないと思われる。もちろんそんなにお金の事ばかり考えて作陶している訳ではないだろうが、少なくとも彼を代表する作品として紹介される事が無いのは確実である。

 

実際この大きさの次郎の作品としてはかなり安く手に入ったと思っている。

 

そのような位置付けの作品であるから、次郎はとても気軽に粘土に向かい、形も何の工夫もない寸胴形にして、いつもの絵柄を手癖でササッと描き上げたのではないか。魚や海老を囲む線にしても実に「適当」である。

 

また、この大きさが「手癖で描き上げる」のに奇跡的に丁度良い大きさとなった。

全ての線が手首を動かす範囲で描ける。しかもある程度の長さを持った線なのでその中での表情の変化も付け易い。これがぐい飲みだと小さすぎて線に表情を付け難いし、大きいと手首の動きの他に腕全体を使って描かなければならないので線の勢いが死んでしまう。

しかもこの形状は複雑な局面のないただの円筒形であり、思った通りの線を引くのに最適な形となっている。

 

大作に見られる次郎を「正装の次郎」と見れば、これは「普段着の次郎」とでも言うべき作品であり、大皿を仕上げ終わった次郎が、今夜の泡盛の事でも考えながら、何の外連(けれん)も無く上機嫌で作った様な雰囲気が感じられる。

 

魚の表情も、何の緊張感も感じられず、ただ自分の存在を楽しんでいる様だ。

他の「正装」した時の表情と比べて欲しい。

文字や絵には、必ずその人が書いた時の「波動」が入り込む。その人の元々持つ波動と、書いた時の気持ちの波動の両方が作品に入り、見るものはそれを感じる事ができる。敏感な者は、その作品に触れただけでその人が持つ「波動」が分かってしまう。

 

私は毎日、次郎さんの「最高傑作」で、「上機嫌の波動」を頂いている訳である。

その恩恵は計り知れない。

 

32,000円、安い買い物ではないか。