· 

サトってる?

 

「うん、俺、結構自信あんだよねー。」

白隠禅師 「すたすた坊主」

ある日突然、人はスピリチュアルに目覚める。交通事故みたいなものだ。

 

それまで「胡散臭い」「社会適応障害者の自慰行為」「訳分からん事をしゃべって悦に入ってる可哀想な人たち」という程度の認識しかなかった世界の中に突然自分が参入してしまうのだ。

 

自分の場合は、通学の電車の中でそれは起きた。

ある本を読んでいる時、突然世界が変わった。電車を降りた時は別人になっていた。19才の時だ。

 

電車を降りているこの体が自分のものとは信じられなかった。自分はこの体をラジコンで操作している何者かだった。

駅の中にも街の中にも自分はいなくて、ただ意識だけがあった。

世界はただの画像で、自分はそれを見ているだけの存在だった。

「何? これ?」と思う自分もいない。

世界は汚いままで美しかった。

 

「あ、禅坊主達が言っていたのは、コレか!?」

 

それまで「何となく他人にエバる為」に読んでいた「臨済録」や「無門関」の言葉が突然現実になる。

 

「よっしゃ、一丁勝負したる!」

 

東北人のクセに大阪弁でそう考え、私は松島の瑞巌寺という有名な禅寺に禅問答を挑みに行こうとした。もちろん全勝する予定である。

「今ならどんな問いにも答えられる」そんな全能感に溢れていた。

現実は瑞巌寺に勝負しに行く事は無かったが、私は当時本気で文部大臣(現在の文部科学大臣)になろうと思っていた。「日本人が惨めなのは、日本の教育制度が悪すぎるからだ」と考えたからだ。

 

その後、高揚と落ち込みが連続し、結局元の惨めな自分に戻ってしまったが、その記憶は自分の中の最重要なものとして位置付けられ、心の奥底の額縁に入って永久保存されたのである。

 

そんな時にたまたま古本屋で見つけたのが、「バクワン・シュリ・ラジニーシ」という人の描いた「存在の詩(うた)」という本で、それからすっかりラジニーシにハマってしまう。彼のアシュラムに行ったり同好の士に会ったりすることは恥ずかしくて出来なかったので、ひたすら彼の本を読むだけの日々だった。

現在は「オショー」と呼ばれているこの人の本(実際は講和を文字起こししたもの)は魔術的な魅力があり、読むとすっかり自分が「悟った」と勘違いさせる力に満ちていた。なので当時の私は現実が惨めなのにも関わらず、すっかり「自分は悟っている」と確信していたのである。

今思えば勘違いも甚だしいが、スピにどっぷりハマっている人たちの多くはこんなもんである。確かに危うい人たちではあるが、基本的に良心が狂信に変わらなければ「良い人」たちである。

 

当時の自分にもし会えたら、伝えたい事がある。

「お前はまだサトってなんかいないよ。勘違いは捨てて、現実に向き合った方がいい。」という事である。

 

そんな事を言ったら当時の自分は自信満々で舌戦を挑んで来る事だろう。そしてその舌戦に勝つかもしれない。何しろ本で得た知識と言葉と勘違いの量が半端無かった頃である。

当時の自分が例え舌戦で勝ったとしても、結局惨めさは変わらないだろう。返って自分の惨めさを確信と共に固定してしまう事になる。

 

さて、ここで私が言っている「悟っている」という状態はどういうものであろうか?

 

誕生日占いによると、10月8日生まれは「この上ないロマンチスト」らしいが、自分では「究極の実質主義者」とも思っている。

そんな私の「悟り」の定義は簡単である。

 

それは第一に、「『自分の問題』は終わっていること」である。

 

あなたがもし悟っているのならば、もう「自分」について考えることはごく副次的なもので、今はいかに「他人や世界を幸せにするか」という課題に取り組んでいるはずだ。それが私の「悟り」の定義である。

この定義で言えば、私は「悟っている」人を少なくとも二人は知っている。

 

もし「悟りとは何ですか?」という問いに対して嬉々として言葉を並べて高揚感に浸り、自己拡大の満足感を味わっているのであれば、その人は確実に悟っていない。

「悟っている? そんな事に別に興味はないし、悟ってなんかいないけど、あなたが幸せかどうかは気になるかなぁ。」そんな答えが返って来れば、その人は「悟っている」確率が高い。もう「自分の問題」は終わっていると思われる。

 

 

 

私の第二の「悟り」の定義も実質的なものである。

 

それは、「常に自分に『気付いている』こと」である。

 

通常はこの「気付いている自分」は存在しない。なので普通の人は1日のうちに100回も人格が入れ替わるが、いちいちその人格を「自分」と思い込み自己同化している。

爽やかな朝日で目覚めた自分Aと、出勤して上司に怒られた自分Bとの間に、何の連続性も無いのが普通である。Aの自分は、「この爽やかな気分で1日を過ごそう」と決心するが、上司がしかめっ面で自分に近づいて来た時点でもうAの自分は消え失せてしまい、Bの惨めな自分が立ち上がるのである。朝のA人格のことなどBの自分は完全に忘れている。

過去の自分の様に、ある時は「悟った(と思い込んでいる)人格A」が立ち上がり、別の時は「惨めな人格B」が存在しているが、人格Aが悟りについて嬉々として話している間は惨めな人格Bが自分の本来の姿である事などすっかり忘れているのである。

 

この様に一般の人間は同じ肉体の中でころころ人格が入れ替わるので「約束」というものが成り立たない。約束した自分Aの後にはそんな約束など全く気にしていない自分Bが立ち上がるからである。

 

仏陀は、「悟っている人とはどのような人物ですか?」と聞かれた時に、「常に変わらない人です」と答えたという。

実際に表情や仕草や態度が変わらない訳ではない。変わらなければロボットや彫像と同じである。

そうではなく、「変わらない」というのは「継続する気付き」の存在を意味している。実際、その人の態度は色々変わるにも関わらず、何か「同じ意識」が常に背景に流れている様に感じるかもしれない。

実質的に「約束」が成立するのは「悟った人だけ」と言ってもいい。

 

グルジェフは、「生は『私が存在し』て初めて真実となる」という本を著しているが、これも「継続する気付き」の事を言っている。『私が存在し』ていない人の生は真実でなく、行き当たりばったりを繰り返す惨めなものだ。自分もそうだったから良く分かる。

 

 

 

第三の定義も実質的で測定できるものだ。

 

それは、「脳波が静かであること」である。

 

これは余計な思考が少ない事を意味している。その人は「考える」代わりに「心の声を聞き、それに従う」のである。

「悟りを開くと自由になる」と思っている人が多いと思うが、実際はその逆である。その人は自分の心の声に逆らう事が極めて難しくなるのだ。心の声に従うと現実世界で痛い目にあったりもするが、それで得られる「本当の、本質からの幸せ」に比べればどうという事はない。

「服従こそ知識の秘密」と言った女性の覚醒者がいるがこの事を言っている。「真実の自分」が立ち上がると以前の「人格」の希望など全て吹き飛んでしまい、どうでも良くなる。

 

また言えるのは、現実には「自由」という「実質」は存在していなくて、ただ「服従」だけが存在しているという事だ。

規範を無視して欲望に任せて行動する事は「社会的規範からの自由」とも言えるが「エゴへの服従」でもある。

悟った人は「エゴから自由」であるが「本来の自己」に服従している。さらに上の悟りを得た人は「本来の自己」からすらも自由になっているだろうが、何かそれよりも上位のものに服従していると思われる。

どちらにしろ、この肉体を支配し動かす主人が「社会的規範」だったり「エゴ・欲望」だったり「本来の自分・愛」だったりするが、肉体は何かに「服従」している事に変わりはない。「自由」というものの実体は無いのである。

 

脳波が静まる事により、それまで聞こえていなかった「心の声」が良く聞こえる様になり、肉体が服従する「主人」が「エゴ」から「本来の自分」に変わる。それにより思考より遥かに優れた判断器官を手に入れ、心の平安と「静かな幸せ」を得る事が可能になる。

 

 

「悟り」というと一般的には何か途方もないもので、サイキック能力が目覚めたり突然後光を放ったりする様なものと思われがちだが、私の「悟り」の定義は現実的・客観的に判断・測定可能なものである。

 

第一の「自分の問題は終わっている」事は、その人の普段の行動を継続して見ていれば分かる。自己主張に興味が無く、他人の世話ばかり焼いている人は「悟っている」可能性がある。

逆に「自分の問題が終わっていない」人は基本的に自分の事しか考えられず、自己憐憫に沈んでいたり、自己顕示に忙しかったりとにかく「余裕」が無い。自己憐憫中の者は自分の苦痛に耐えており弱々しく見え、自己顕示欲が盛んな者は活力が旺盛な様に見えるが、どちらも「自分の問題が終わっていなくて、他者の事を考える余裕が無い」という点では同じである。

 

悟っている人は自我意識が弱いので「私」という言葉に抵抗を覚え、あまり使いたがらない人も多い。「我々」や「世界」「地球」という主語を良く使う傾向がある。

逆に悟っていない人の主語はいつも「私」である。

 

第二の「常に自分に気付いている」事も、第一よりは分かりにくいがその人の「首尾一貫性」を見ればある程度推測できる。悟っていない人は言う事や態度をころころ変え、しかもそれに気付いていない。

「常に自分に気付いている」人には、いつも何か「変わらないもの」が根底に流れているのが何となく感じられる事が多いが、それを意図的に隠している人も居るので一概には言えない。「荘子」では、「皆に尊敬され丁重に扱われるのは二流、悟りを気づかせず皆には凡夫と思われているのが一流」という話がある。

 

この「継続する意識」は人間が生来持っているものではなく、通常は日常生活における長年の修練を必要とする。

習慣的に毎日瞑想する者や、精密な手仕事や武術を職業とする者、また普通の職業でも特別の注意を払って行う超一流のビジネスマン等はこの「継続する意識」を持っている事が多い。「継続する意識」を持つ事は一般の人々に対する大きなアドバンテージであり、それは実際に「金を稼げる」人間であるという事だ。

早々に社会をドロップアウトしてスピ界にどっぷり浸かる生活をしている者よりも、社会に出て実際に金を稼ぐ能力を身につけた人間の方が結局早く「悟り」に至る事は良くある。ごまかしや言い訳の効かない厳しい社会生活は最高の「修行の場」であり、そこで「継続する意識」は磨かれ研ぎ澄まされるのである。グルジェフも「社会において弱い者は内面探求のワークにおいても弱い」と言っている。

 

また、「継続する意識」を持っている人はある種独特の「雰囲気」を持っている。それは多く「目」に現れ、例えばその人の目の前に立った時、その人はあなたを真っ直ぐ見つめている様に見えるが、視線はあなたを通り越してその「背景」やあなたを含む「全体」を見ている様な感覚を受ける。実際彼らはあなたを見ると同時に自分や全体に「気付いている」のだ。目前と背景と自分自身と全体を同時に見ている。あなたはその中の一部に過ぎない。なのであなたの相手をしつつも同時に周囲の状況に「気付いて」おり、何かあればすぐ対応できる体勢にある。

 

通常の人間はこの「注意の分割」が難しく、誰かの相手をする時はその相手以外の事に注意を払いにくいし、その相手への対応に全注意力を注いでしまう。いわゆる「いっぱいいっぱい」の状態になってしまい、目の前の相手が世界の全てになって余裕が無くなる。

悟っている人間にとっては、あなたはこの全世界のほんの一部に過ぎない。ほんの一部が何をしようと全体として見れば何も変化していないので、常に余裕を持って対処できる。

「悟った」人間は、この世に居ながら「悟りの世界の住人」になってしまい現実への対応能力は低下していると思われがちだが、実際は逆である。その人は常に政治家や経営者よりも高く広く継続的な視点で物事を見ており、かつ目の前の細やかな事にも全て気付いて即応できる優秀なビジネスマンでもあるのだ。

 

第三の「脳波が静かなこと」は実際に測って見れば良い。一番客観的な判断規準であるが、悟っている人が道具として思考を使っている時は脳波に乱れが見られるだろうし、一般的な人でも気持ちが落ち着いている時は静かな脳波になる。

実際にはまる1日あるいは何日間かの測定での傾向を見る必要があると思われる。中には「全く脳波が無い」状態で生活している人もいる。こういう人は完全に「自我」が無く、何も考えずにただ「本来の自分」の言うことのみに服従して生きていると思われる。

 

 

これらの「悟り定義」の目的は、これに従って「悟った」人が増えていくと「自動的に地球が救われていく」という点である。

「悟った」後もそれに気づかずに「もっと、もっと」と探求を続けて他を救う機会を逃している者もいる。上記の第二・第三の状態にあればもう「自分の問題」は終わっていると見て良く、これからは「他者を救う」事でハートを大きく育てる修行を積まなければならない。一人で修行する段階はもう終わっており、いつまでも自己だけに拘っていても大した進歩は望めない。

 

また逆に「自分は悟っている」と勘違いしてむしろ他者を害している者は、この「悟りの定義」に照らして自己の未熟さを自覚して真っ当な修行へと向かう事が望まれる。その人はまだ「教える」段階には至っておらず、その人の「教え」の中には必ず「自分のエゴ」が入っている。この「エゴ」は必然的にその教えを受ける者を傷付ける危険なものである。

現在の新興宗教団体のトップの多くはこの段階にある者たちであり、その信者たちはそれとは気付かずに大変な被害に遭っている事が多い。この定義は現在の宗教被害を未然に防ぐ効力もある。その団体のトップにこの3要素が当てはまるかを見てみれば良い。

 

 

 

 

・・・・さて。 

 

 私が悟っているかどうかって?

 

「悟り」という言葉は嫌いなので、悟っていません。

そんな事気にかける暇があったら、金を稼ぐか瞑想する事をお勧めします。

あなたにとって「私が悟っているかどうか」は重要ではなく、「私の方法は悟りへ導く実質的なものかどうか」の方が遥かに重要です。

 

 

 

 

・・・サトってる?