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その「怒り」いらなくない?

 

結論だけを知りたい方はこちらまで

 

人間、失格?

私は、自分が「奴隷」ということに50年以上、気が付いていませんでした。

 

なので50歳以下で「自分が奴隷」という事に気付けた人は凄いと思います。余程苦しい体験をなされたのでしょう。それこそ「死んだ方がマシ」という「以上」の体験を、しかも恒常的に。

 なぜなら私がこれに気付くまで約40年間、恒常的に苦しんでいたからです。「死んだ方がマシ」という位に。

 

小学生の時のある日、図書館の中で突然「自意識」が芽生えました。

「私はここに、〇〇(私の名前)として存在していて、周囲の人間は私の事を〇〇と認識している」という事が突然、分かったのです。

 

それまで自分の中には単一の人格しか存在せず、自分が何であるかも、今どうしているかも分からずただ衝動に従って行動していました。ある意味「幸せ」でした。

しかし、その時以来私の「幸せ」は破壊され、延々と続く「苦しみ」の毎日が始まりました。朝意識が目覚めてから夜眠りにつくまで、「自意識」の為す行動は悉く「本来の自分」を苦しめて止むことを知りませんでした。

 

自分の人格は全て「苦しみ」を材料にして作られました。

こんな人間に誰が親しみを持つでしょうか? 私は完全に孤独で、それがまた私を苦しめました。

 

死ななかったのは、死ぬ勇気も元気もなかったからです。

自ら命を絶つにはある程度の勇気と元気が必要です。それすらも無かった私は、毎日の生活を何とか「誤魔化して」生きる以外の選択肢はありませんでした。幸いな事に、「誤魔化す」事が出来る程度の「知能」は与えられていました。

 私は1日のうち何回かその「知能」を使い、明日生きるための最低限の事をやり、その他の時間は全て苦しみと戦うことに費やしました。最低限の事すら出来ない事も度々あり、その都度周囲の人間に迷惑をかけていました。私はますます孤独でした。

 

朝目覚めて寝床から起きるまでの時間が特に地獄でした。

幸せな昏睡状態から無理やり引き摺り出され、「ああ、俺は地獄にいたんだった・・・」と絶望の中に投げ出されるのです。寝床はまるで針の筵(むしろ)、というよりは針が内側に付いた服を着ている様な状態で、寝ても起きても結局精神は血だらけになるのでした。

アボカド6「苦しみ」「やぶれかぶれ」on Twitter

幸いな事に、「首から上」だけはこの服から免れていましたので、私は「知能」を使い表情筋を動かす事が出来ました。私は笑ってみました。

しかし、人々は私の笑いに「血の匂い」を感じ、心から笑い返す者は誰もおりませんでした。

 

人間、失格・・・?

・・・と太宰風?に始めてみたが、これは事実である。

私は何の「奴隷」だったのか?

 

「否定的感情」の奴隷である。

 

「否定的感情」とは「怒り」「自己攻撃」「後悔」「自己憐憫」等、他人または自分を害する感情を言う。

私だけではない。ほぼ全ての地球人類が「否定的感情の奴隷」としての一生を送る。普通の人間は自分の「否定的感情」に逆らう事が出来ない。人はある時突然「否定的感情」に完全に支配され、後先考えず自他を害する行動を取る。彼に選択の余地は無い。爆発した感情はそのまま攻撃行動となって相手または自分を責める刃となる。相手に向かえば「怒り」となり、自分に迎えば「自己攻撃」となる。ここでは相手を攻撃する「怒り」を中心に考えてみる。

 

この世界の法則は、「自分がした事はそのまま自分に返って来る」という事だ。これを「カルマの法則」とか「運命の法則」とか言う人もいる。宇宙全体は常にバランスを取って存在しており、あなたが出した刃は必ずあなたに返ってくる。その正確性は驚く程だ。

あなたが今どんな状況に居るにしろ、それは今までのあなたの行動の結果である。全て自分で作り上げたものだ。

あなたが「否定的感情」によって「刃」を作り相手を攻撃した後、その刃はそのままひっくり返ってあなたに向けられ、あなたが相手を刺したのと全く同じ分だけ、寸分の狂いもない正確さであなたを切り刻むのである。「否定的感情」とは「双刃の剣」なのだ。

この事を理解するまで私は40年以上掛かった。それまでは環境を呪い、自分の性格を呪い、他人を呪って生きていた。「自分のせい」は一つもなく、全て「自分でない何か」の責任であった。

そして苦しんでいた。それは「意識のある間のほぼ全ての時間」であった。ある人にリーディングをしてもらった時、「その精神状態でよくぞ生きていてくれた」と感謝された事がある。普通だったらとっくにこの世界から去っているそうだ。

 

私は何故、否定的感情に支配され、苦しんでいたのか?

 

今はそれは明確だが、当時の自分にはまるで分からなかった。それを見る為の「視点」を持たなかったからだ。そして殆どの人がこの「視点」を持っていないという事も今は理解している。それを持つのはある意味「特権」であり、人間としての「進化」の結果なのだ。

 

 

その「視点」を持つ方法が「瞑想」である。他の方法によってこの「視点」を獲得した者もいるが、そこには必ず「瞑想」の要素が入っている。

私は瞑想によって「対象物の無い、純粋な意識そのもの」を「本当の自分自身」として「継続的に自覚する」事が可能になり、これにより始めて「自分全体」を「客観的に」見る事が出来る様になったのである。

 

この「意識そのものの継続的な自覚」が訓練されないうちは、全ての人間は「その場その場の偶発する出来事」によって引き起こされた「否定的感情」の「奴隷」である。

例えば今この文章を読んでいるあなたには、ある感情が起きているはずだ。そしてそれに成り切って、その感情が自分だと思っている。そして私の文章に対してある感情を向ける。それは反感かもしれないし、攻撃かもしれない。

その「否定的感情」を「自分の意思・自分そのもの」と思い、「私は知っている、私は正しい」と思っていれば、あなたは「感情の奴隷」である。

 

しかし現実には否定的感情は「あなたそのもの」ではなく、あなたが自分で作り出した「幻」なのだ。あなたは現実には存在しない「幻の刃」を、その必要性もないのにわざわざ作り上げ、それで他人を刺し、その返礼として他人や環境に刺されているのである。

 

その観点から見れば、この地球は完全に狂っている。

誰もが頼まれもしないし必要ともされない刃をわざわざ作りあげ、その刃でお互いを刺し合って生きている。そしてその刃は自分がわざわざ作り上げたものだとは気づかず、その刃を「生来の、自分そのもの」と思い大切にし、それに誇りさえ持っているのである。

そんな何の役にも立たない「刃」など、いつでも捨てられるにも関わらず。

 

否定的感情に支配されている時のあなたを思い浮かべてみよう。あなたは全力で「怒り」を相手に向け、攻撃しているとする。その時のあなたは、その「怒り」に対してある種の「確信」、「誇り」や「自負」を持っていないだろうか?

 

「私は知っている、私は正しい! 彼は間違っている!」と。

 

また、この「確信」が無ければ相手を刃で刺す事は出来ず、ためらいが起こるだろう。

「相手への攻撃」の裏にはこの「自分の方が正しい」から「相手を刺す権利がある」というロジックが隠れている。怒りを爆発させる前に、人は無意識にこのロジックを自分の中で発動させ、自分を納得させ、言い訳を作り、その根拠の元に確信を持って相手を刺すのである。少なくとも怒りの瞬間はその「怒りを正当化するロジック」が発動している。でなければ人は怒りを相手にぶつける事は出来ない。

 

 そして、怒りを相手にぶつけ終わった後に自分に返ってくる様々な「報復」に直面した時に初めて、「あの時の自分は間違っていたのかもしれない」と考え始めるか、「いや、やはり自分は正しいのだ」という正当化をするのである。

 

ここで「自分は間違っていたかもしれない」と考える人は、「進化」の可能性があり、「幻の刃」の飛び交う「殺戮(さつりく)ゲーム会場」から離れて、安全で快適な「意識そのもの」という「リゾート地」で寛ぐ事が可能となる。

「やはり自分は正しい」と正当化する人は、「進化」の可能性はなく、いつまでも他人を害し、その返礼として環境から害され続ける事になる。

 

人は「プライド」という「偽物の自信」を取るか、「プライドを捨てる」事によって「本物の自信」と「本当の寛ぎ」を得るかの選択権を持っている。どちらを選ぶかはその人の自由であり、それによってその人の「成熟度」が現れる。

 

 あらゆる経験によって成熟し、自分の思考を「固定化・定型化」する事の愚かさを知り、「本当の自信」が成長しつつある人は、「プライド」という「偽物の自信」を捨てる準備が出来ている。

 

未成熟な者は「本当の自信」が無いので「プライド」という「作り物で偽物の自信」に頼らざるを得ない。それは脆弱な材料で作られた偽物のガラス細工なので、現実というブルドーザーが横を走っただけでその振動で壊れてしまうのである。

未成熟な人はいちいちプライドを修復しなければならず、修復した途端にまた壊れてしまうので朝から晩まで自分の事にかかりっきりである。それはダンプトラックや大型ブルドーザーの行き交う建設現場の真ん中でトランプの塔を積み上げる様なものである。

 人が成熟するには、この「トランプの塔」が何回も何回も崩れるのを経験しなければならない。崩れた回数がその人の経験値であり、成熟度である。

 

 

誰も来ない、冷暖房の効いた快適で静かな部屋に住んでいたら「トランプの塔」は崩れる事もなく、人は自分のプライドが危ういバランスの上にかろうじて成立しているものだと気づけない。

これはある意味「本当の不幸」とも言えるだろう。人生の一番の醍醐味である、「深みのある友人」が一人も持てないからである。

 

厳しい外界に晒され、繰り返し繰り返し「トランプの塔」を崩された人は、自分の「プライド」を段々と疑い始め、そこから「成熟」のプロセスが始まる。

 

 

 

 

 

 

 

 

・・・さて。

 

ここから先は、「成熟した人」か、「成熟したい人」だけが読めば良いだろう。

まず「怒りのメカニズム」を解き明かしてみよう。

 

怒りとは「摩擦」によって起きる「火」である。

何が摩擦しているのか?

 

「現実」と「思考」が摩擦しているのである。

 

「思考」を「理想」や「欲望」や「希望」や「信念」や「常識」や「道徳」や「夢」と置き換えてもいい。

それらの特徴の第一は「思考されたもの」であり、「認識された事実」ではないという事だ。なのでこの思考は事実と異なる事が多い。往々にして現実よりも過剰に高いレベルの思考であり、現実離れした「絵に書いた餅」である事も多い。

 

そして第二の特徴は、その「思考」をしている本人が、「この思考は正しい」と思っているという事である。その思考を「価値観」という事もできる。

 

その二つの特徴を持つ思考を仮に「正当化思考」と名付けてみよう。怒りのメカニズムはこうなる。

 

「怒り」とは、「現実」と「正当化思考」との「摩擦」によって引き起こされる「火」である。

 鋭い者は、これだけでもう怒りの問題を解決できるだろう。そう、「怒り」を無くすにはただ「正当化思考」を止めれば良いだけである。

 

「摩擦」は二つのものの間で起きる。「現実」だけがあり、「正当化思考」がなければ「摩擦」も起きようが無い。

 

「正当化思考」とは即ち、「理想」や「欲望」や「希望」や「信念」や「常識」や「道徳」や「夢」の事である。

これらが無ければ良い。そして、これらを捨てられるのは「成熟した」人間である事が必要である。

 

「正当化思考が無い」とはどういう状態だろうか? 二つの状態が考えられる。

 

1.現実と思考が一致していること

2.思考そのものが無いこと

 

まず1から考察してみる。

「現実と思考が一致している」という事は、「現実を全て受け入れる思考をしている」という事である。これには「肯定型」と「無批判型」があるだろう。

 

「肯定型」は何が起きてもそれを「良い事である」と肯定するタイプである。

「無批判型」は、何が起きてもそれを「ただ認識」し、肯定も批判もしないタイプを言う。

 

道を歩いていて転んだ場合を考えてみよう。

「肯定型」は、「私は転んだ。これは良い事だ。転ぶ事によって私は自分の不注意や体調の悪さに気付けたのだから。」と考える。

「無批判型」は、「私は転んだ。ただそれだけの事だ。それは良い事でもなければ悪い事でもない。私は『転んだ』と言う事実をただ受け入れ、擦りむいた膝の治療をするだけだ。」と考える。

 

誰かに批判された場合を考えてみよう。

「肯定型」は、「私は批判された。これは良い事だ。彼は私の注意すべき所を指摘してくれた。これで私は成長できる。」と考える。

「無批判型」は、「私は批判された。ただそれだけの事だ。私は私の特徴があり、彼は彼の特徴がある。彼は彼の特徴により、私の特徴のある部分を『悪い事』と判断したというだけの事だ。それは良い事でもなければ悪い事でもない。ただその事実があるだけだ。」

 

「肯定型」は事実にいちいち「良い理由」をつけるが、「無批判型」は事実を「そのまま認識」する。

「無批判型」の方が懐が広く上位にあると言えよう。

 

 

次に2を考察してみる。

「思考が無い」という状態は「瞑想」によって作られる。

超実用瞑想で言えば、「松果体へのエネルギーの集中」により思考ではない「意識そのもの」を立ち上げ、「思考」を司る「前頭葉」の活動を沈める事である。

これは1の「無批判型」をさらに上回る汎用性を持つ。事実に対面した時に「思考」する必要が無いからである。

 

道を歩いて転んだ場合を考えてみよう。

彼は何も考えていない。転んだ瞬間も「自分が転んでいる事」に気付いている。まず転倒が始まった瞬間に、「今、転倒が始まった」と気付いている。そして、徐々にバランスを崩していく自分の体に気付きながら、転倒を回避する姿勢を取るか、転倒してもダメージが少ない姿勢を取る様に行動する。これは「思考」していたら出来ない。思考が無くなった時に立ち上がる「意識そのもの」は認識と判断に時間的ギャップが無いので瞬時の対処が出来る。

 

「思考」している場合は、転倒が始まった時から終わりまで「その時自分が考えていた事」に気を取られ続け、転倒が終わった後に「自分は転倒した」と気づく。または、転倒が始まったと同時に「転倒する!痛いのはイヤだ!」という「思考」に気を取られ、自分の姿勢を制御する事が出来ずにダメージの大きい転倒の仕方をしてしまう。

 

「無思考型」の場合は、転倒しかかってそれを回避した後に、「あ、私は今転倒しかかったが回避できたんだな」という事を思考する。「思考型」の反応は

 

咄嗟の出来事(転倒等)の開始→パニック状態→咄嗟の出来事の終了→思考による事実の認識・判断(私は今転んだ、痛い、治療しなきゃ、等)→事後の対処(治療等) 

であるが、「無思考型」の場合は

 

咄嗟の出来事の開始→瞬時の認識・対処→咄嗟の出来事の終了

 

となる。あとは必要に応じて思考を発動させて事後処理をすれば良い。

 

この「無思考型」の人は例え転んでしまった後でも「怒り」の沸き様がない。「摩擦」の原因の「正当化思考」どころか、「思考そのもの」が無いからだ。淡々と怪我なり乱れた服装なりに対処していくだけである。

彼が転んで怪我をしたとしても、その痛みは「思考」している人よりずっと少ない。「痛み」は、怪我をした箇所に意識を集中させる事によって強化される。「思考型」の人は怪我をするとその怪我の部分に意識を集中させて、「ああ、私は怪我をしてしまった」という「思考」に囚われ続け、結果としてその怪我を強調し、痛みはますます強くなっていくのである。

これは病気についても言える。「病は気から」というのはその真理を表している。「病名が付くとその病気になってしまう」というのは特に精神疾患において顕著である。

 

この様に、「無思考型」の人は、転んでも被害が少なく、もちろん怒りも沸き様がない。

 

次に、無思考型の人が誰かに批判された場合を考えてみる。

 

誰かが彼に対して批判をしている。彼はそれを「ただ聞いて」いる。

聴きながら「その批判は間違っている」とか「自分はそんな人間ではない」等の「判断」をしない。彼はその批判を聞くと同時にそれに対する自分の反応にも注意を向けている。そして「事実をありのまま認識する」事に淡々と専念する。

批判が終了した時点で、彼の中には全てのデータが何の装飾も誤解も無く認識されている。彼はここで初めて思考を発動させ、事実の因果関係を探っていく作業を開始する。そして事実をありのままに認識し、理解する。それでこの出来事は終わりになる。必要な場合は思考を使って事後処理をすれば良い。

 

余計な「プライド」が無ければ、事実はありのままに認識された時点で完結し、一切の痕跡を残さない。彼は過去からの何物も引きずる事なく、今の瞬間のフレッシュさをいつも最大限楽しんでいる。

 

「思考型」が批判された場合は全く違った反応になる。

誰かが彼に対して批判をしている。彼はそれを「ただ聞く」事ができない。

なぜなら彼には「エゴ」があり、「プライド」があるからである。批判が始まると同時に彼は「そうではない!その批判は間違っている!」という「思考」に囚われ、「怒り」の反応が起きる。この「怒り」とは彼の「自分は正しい」という「正当化思考」と、「自分に対する批判」という「事実」との「摩擦」で起きた「火」である。

彼はその批判を客観的に判断する事ができなくなる。批判が始まった時から、彼は反論する事しか頭にない。批判が終わるか終わらないうちに彼は相手に対して反撃を始める。当然相手もさらに反論する事になる。

相手を完全に打ちのめさない限り、彼は相手と別れた後も延々とその批判について反芻し、反芻する度に「怒り」という「火」に油を注いでいく。その「火」は彼の周りに居るものにも「飛び火」し、関係の無い者をも傷付けてしまう。そして彼は自分の起こした「火」の「後始末」を全て引き受ける事になる。

 

「無思考型」の人は「自分」という観念が無い。

あるのは自分や他人や環境で構成された「現実全体」だけである。自分の肉体や、自分に対する評価、自分のいる地位等も、彼にとっては「現実全体」の「構成要素」の一つに過ぎない。それは他人の肉体や評価、地位と等価的に認識される。彼の行動原理は「『現実全体』にとって良いか悪いか」であり、その為に自分の肉体や精神を「道具」として使用しているのである。

もちろん肉体を持ち、地球に存在している限りは自分を守るための「エゴ」は必要である。だが彼の中では「自分のエゴ」も「現実全体」の構成要素の一つに過ぎず、現実全体のバランスの中で調整をとりながらエゴを使っている。

 

 

 

結論を言うとこうなる。

 

1.一般的な、プライドを傷付けられた事等に対する「怒り」は他人や自分を害するものなので、排除されるべきものである。(「怒り」の背景に「愛」だけがある場合は「必要な怒り」として容認される)

 

2.「怒り」は本来の人間が持っている感情ではなく、後天的に獲得した「知能」による「エゴ」「プライド」によって引き起こされるものなので、「怒り」が無くなっても人間に悪影響は無い。この観点からも「怒り」は排除すべきものである。

 

3.「怒り」は「現実」と「正当化思考」との摩擦によって起きる「火」である。

 

「正当化思考」とは、「私は知っている、私は正しい」という背景を持つ思考であり、例としては「理想」や「欲望」や「希望」や「信念」や「常識」や「道徳」や「夢」等が挙げられる。

 

4.「怒り」を無くすには「正当化思考」を止めれば良い。

 

5.「正当化思考」を止めるには人間としての「成熟」が必要である。

 

「成熟」とは「プライドを折られる」等の「苦しみの経験の多さ」とそれによる「自己の信念に対する疑いの発生」を主に指す。

 

6.「正当化思考」を止める方法には、以下の3つがある。

 ①肯定思考型

 ②無批判思考型

 ③無思考型

 

7.上記3タイプでは、③が一番優れており、次いで②、①となる

 

8.③無思考型は、「瞑想」によって作られる。

 

9.「怒り」を排除できない場合その人は人生の要所要所で「怒り」に支配され、良い方向への道を自ら閉ざす「怒りの奴隷」として受動的・非主体的な一生を送る事になる。 

 

10.「怒り」の主人となり、必要に応じて「怒り」を「愛の道具」として使える様になれば、「自分の人生の主人公」になる事ができ、能動的・主体的な生き方をスムーズに進められる様になる。

 

11.上記を理解し③の「無思考型」になりたいと望む人は現実的には「瞑想」をする以外の手段は無い。

 

ただし、本当に「怒り」の不要性を理解し、そこから逃れたいと望まなければ瞑想も継続せず、効果は無いだろう。これは瞑想への勧誘ページではない。あなたが瞑想するかしないかは完全にあなた自身に掛かっている。私はやりたい者にやり方を提示するだけである。

 

12.いわゆる「アンガーマネージメント」は怒りの根本原因まで踏み込んでおらず、表面的な小手先の操作なので根本的な効果は期待できない(ある程度の効果は期待できる)。

根本対策は瞑想しかない。