「プロカメラマンが撮る」、ということ。
そう、それはこんなにも「違う」のだ。
「写真なんて、シャッター押せば誰でも撮れるでしょ? 何でわざわざ高いお金を払って人に撮ってもらうの?」とお思いの方もおられると思うが、そういう人は一度「プロ」に撮影を依頼してみる事をお勧めする。
一般的な写真を単なるその時の「記録」とするならば、プロの写真というのは、その時にそこにある「人物」「物」「背景」「感情」「肉体」「光線」を「絵の具」とし、カメラを「筆」とした「即興絵画」なのである。
我々が普通に撮影した旅行写真の作用は単に「その時の記憶のプレイバック」のみである事が多いが、プロの写真においてはまずその「絵画性」が視覚に飛び込んで来た後に、その時の記憶が数倍の彩りを持って鮮やかに浮かび上がるのである。プロの写真が醸し出すその「彩り」が「現実」を超えた鮮やかさを持つ事もしばしばである。もちろん、ここでいう「プロ」とは「腕の良いプロ」という意味である。
旅は二つの側面を持つ。
「旅そのもの」と「旅の記憶」である。そして重要なのは前者よりも後者である事が多い。
「旅そのもの」は家に帰り着いた時に終わる。しかし「旅の記憶」はその人の中で大切に仕舞われ、我々は折に触れてその「旅の記憶」を取り出しては反芻し、平凡な日常の慰めとしたり、会話に添える色彩にしたりという事を一生の間繰り返すのである。
その、「旅そのもの」より重要な「旅の記憶」を甦らせる「道具」として写真を考える時、一般的な「記録写真」の「旅の再現度」は現実の旅の30%位であろう。しかしプロが撮影した「即興絵画としての写真」の「旅の再現度」はしばしば実際の旅を超え、120%、200%位になる事も珍しくない。「写真は現実を超える」のである。
この「価値」がお分かりだろうか?
「良い写真」というものは「旅の価値」を何倍にも上げるのである。全く同じ旅をしても、残された写真の出来によってその価値が大きく違ってくるのだ。旅費の中に「専門家による撮影料」を入れる事がいかに有益か分かるであろう。
また、旅先で良い写真を撮ろうと思えば、常にカメラを携帯してあちこちを見回して被写体を探し、良い被写体が見つかったらアングルを考え、次の予定や同行者の動きを気にしながら限られた時間内で素早く撮影を終えなければならない。旅の「カメラ担当者」は、その「仕事」に体力と気力を使い果たし、帰ってきたら肝心の「旅そのもの」の記憶が殆ど無い事さえある。
そういう「カメラ担当者の不幸」を無くし、全ての参加者が旅を楽しむ為にも「専門家による撮影」の価値は大きい。
そう、大きいのだ。
大きいんである。
とても大きい。
・・・何故なら、今回の旅においては、私がいつも味わう「カメラ担当者の不幸」が、全く無かったからである! パチパチ。
「あー、楽ちん楽ちん!」
今回、私は「カメラの呪縛」から解放され、存分に旅を楽しんだのであった。ありがとう! 寺岸カメラ!(ありがたい割には失礼な呼び名ではあるが、気にしないで頂きたい)
昼食を終えた我々は、「三陸復興国立公園」の景色と「3回お参りすれば一生お金に困らない」と言われている金華山黄金山神社を満喫すべく、宿泊所を後にしたのであった。
空はどこまでも深いスカイブルー、排気ガスを全く含まない(車は宿〜港を往復する1台のみ)新鮮な森と海の風。
日帰り客は13時30分の連絡船で全員帰っている。今、島にいるのは宿泊客のみ。
そして何と、この夏休み大型連休の初日、普通なら1年で最も宿泊客が多くなるこの日、金華山参集殿(参拝の為の宿泊所)に宿泊したのは、我々の他は僅か1名であった。
台風によるキャンセルが相次ぎ、満室だったはずの参集殿が我々の他はほぼ全て空き部屋となったのである。各部屋の扉には「〇〇株式会社」とか「立川市〇〇様」といった客への表示板が掲げられていたが、部屋は我々を除きほぼ全て空室となっており、直前キャンセルの多さを物語っていた。
・・・この広い島に、参拝客はほぼ我々8名のみ。
見渡す限り、我々以外の誰もいない。
・・・「金華山貸切状態」である!

キセキ5:台風によるキャンセルにより、我々以外ほぼ誰もいない「金華山貸切状態」になった。
早速、我々は誰に遠慮する事も無く、「アイドル」になる事にしたのである。
「はーい、〇〇ちゃーん、こっち〜、イェーィ!」
「そこで飛んでみようかー。 ジャーンプ! オッケー!」
寺岸カメラの「営業用」の高い声に乗せられて、その場のテンションがどんどん上がっていく。
カメラマンが居ると、この様に「場を盛り上げてくれる」という大きなメリットがある。集団の中に「盛り上げ役」が居ない場合、これ程ありがたい存在は無い。
撮影が進んでいく。
流石亜凛さんは撮られ慣れているだけあって、表情もポーズも自然に決まっているが、それ以外の我々も「にわかアイドル」と化して普段やらないポーズや表情を連発する。貸切状態をいいことに、もうやりたい放題である。ここに他の観光客がいたらとてもこんな事は出来ないし、出来たとしても他人の目を気にしてこの表情にはならなかったであろう。
「亜凛ちゃん、顔だけこっち向いてー。そーそー、ハイ大成功! オッケー!」
コヤツは亜凛さんを「ちゃん」呼ばわりする馴れ馴れしいヤツなのであるが、実はそれが「旅の狙い」の一つでもあるのだ。
今回の旅の一般参加者は、全て亜凛さんのファンや信奉者である。当然亜凛さんの能力や人間性に対する尊敬があり、「ちゃん」呼ばわりする者など一人も居ない。しかし初参加の寺岸カメラは、スピリチュアルの事など全く関心が無い「普通の人」である。当然亜凛さんに対する認識も、「普通の女性のお客さん」以上の何物でもない。
スピリチュアルに関心のある人達は、一般社会に向けてはその事を隠している場合が多い。何故ならこの世界に対する多くの偏見があり、「白い目で見られる」事もしばしばだからである。なので、スピリチュアル系の人たちは、話が通じる者同士で「コロニー」を形成する。そしてそのコロニーが一般社会と接触する事は殆ど無い。
しかし道楽庵のモットーの一つは、「Break the Wall 壁を壊してホンモノを生きよう」という事である。
道楽庵メンバーである「若なかま」達も、普通のサラリーマンから大学教授、茶道の家元、音楽家や舞踏家、スピリチュアル能力者や凄腕整体師、酒屋・お土産屋などあらゆる分野の人たちが集まっている。道楽庵活動では、その人たちをジャンルを超えてをどんどん組み合わせて「新しい波」を起こしている。
今、時代はかつてない「変容期」に入っており、これまで裏だったものが表になる時代となりつつある。
裏も表も壁を取っ払ってオープンになり、それぞれの価値を否定する事なく認め合い、その上で自分の主体性を持って選択すれば良いのだ。否定されたり攻撃されたりするのを恐れていては新しい事は起こらないし、それでは面白くない。
「コロニー」はどんどん解体して様々な分野をミックスする事で大きな「化学変化」が起き、新しいものが誕生するのである。
この旅で言うならば、亜凛さんグループという「正」と寺岸カメラという「反」をアウフヘーベンし、お互いに新しい刺激を与え合い成長していくという弁証法的狙いがある。そしてそれは今回は成功したと私は見ている。
亜凛グループは寺岸カメラを通じて旅を一層楽しんだだけでなく、「プロの仕事」というものを目の当たりにして大いに刺激になったと思われるし、寺岸カメラも旅行後に「今までああいうヤツらはただの精神白弱者の集まりだと思ってたけど、あのグループなら俺全然OKだな」と新たなスピリチュアル観を獲得したのである。
どちらにしろ、上々の滑り出しである。私は「棟上祝」の手拭いを颯爽と広げ、金華山参拝の緒戦の成功を祝ったのであった。
つづく
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