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知られざる国宝

 

誰も知らない「最大の見所」

それにしても、この金華山黄金山神社の社に施された彫刻は見事である。超一流の彫物師の作である事は疑いない。

私もカメラマンも、建物の随所に施されたハイレベルな造形に目を奪われ、移動の途中にしばしば見入ってしまうのであった。

 

「おい、すげぇな、これ・・・」

「うん・・・凄い・・・!」

 

どの彫刻を見ても、その精緻さと存在感に圧倒される。しかもこんなに見事な彫刻なのに、一般的には全く知られていない。「金華山の社彫刻は必見!」などと言う情報が事前にあれば、我々もそれなりの「心構え」をして冷静に見られたであろうが、この時正に「聞いてないよ〜!」状態だった我々は、これらの彫刻のレベルの高さに強烈なアッパーカットを喰らい、のけぞりながら空中に弧を描き二人同時にノックダウンしたのであった。

 

 

良い芸術作品は言葉を超える。我々は感動を溜息で現すしか無かった。

「はーぁ・・・・・」

「ほーぉ・・・・・」

「ふーん・・・・・」

もう「は行」の声しか出てこない。溜息のユニゾンである。

 

彫刻を絵画に例えるならば、これらを造った彫物師は基礎的な「デッサン力」が飛び抜けて高い。どの彫刻にも「命の息吹」が感じられ、今にも動き出しそうな力に溢れている。その並外れた造形力は架空の生物にも強烈なリアリティを与える。

どの分野でもそうだが、基礎力を鍛えるには日々の地道な努力しかない。この彫物師は一体どれだけの修練の果てにこの造形力を身につけたのだろうか?

 

例えば、龍が身に纏っている「雲」の造形を見て欲しい。

「木材」という、手で強く触れればポキリと折れてしまう材料を使って、これだけ細い線を現せる彫物師がどれだけ居るだろうか? 神業に近いと言ってもいいだろう。これほど「危ない橋」を渡った造形もあまり無い。

 

ちなみに、ここ以外の社彫刻を見てみよう。

どの彫刻もある程度の技術はありそれなりの説得力はあるが、ここ黄金山神社の彫刻との差は一目瞭然である。これらの彫刻を「美術品」とするなら、黄金山神社のそれは「芸術作品」と言っていいだろう。その「差」とは彫刻の持つ「生命力」の圧倒的な違いである。ここの彫刻は生きている。

金華山は「お金の神様」として全国的に有名だが、もしそうでないとしても、この彫刻を見る為だけに連絡船に乗って離島に来る価値は十分にある。

 

そして、ここの彫刻のもう一つの凄さはその「構成力」である。

鳳凰の広げた羽の美しさも去る事ながら、周囲を取り巻く飾り羽の配置も見事である。

こういった造詣は作りやすさや強度を考えて単調になりがちであるが、この飾り羽は一本一本の太さの違い、先端に向かって波打ちながら細くなっていく形の流れ、そして遠近感を上手く使った前後配置の絶妙さでいつまで見ていても飽きる事が無い。この部分を彫るだけでどれだけの技術、労力、時間が費やされた事だろう。

 

また、虹梁(こうりょう・建物正面の横梁)の上に施された彫刻の人物配置の的確さ、そしてそれを引き立たせる背景も見事である。

こういった人物の背景はともすれば「うるさく」なりがちで、肝心の人物が背景に負けてしまう事も少なくない。しかしこの彫刻においては背景の各所に見られる「空間」の配置が絶妙で、人物の存在感を損なう事無く調和している。この構成にたどり着くまで、一体どの位の時間が費やされたのだろうか?

 もしこれが一人の彫物師の仕事だとすれば、それはおそらく生涯を掛けた創作であったと思われる。1年や2年で出来るものではない。

ここの本殿の前に建つ青銅製常夜灯は「日本三大灯籠」の一つとされており、その造形の緻密さと優美さは目を見張るものがあるが、社に施されたこれらの見事な彫刻の事は全く知られていない。

 

鋳造品と木工品を比較するのはフェアとは言えないが、造形力の高さ・全体の構成バランス・各部分の作り込みの丁寧さ等、社彫刻の方が遥かに上回っている。灯籠も見事な作品である事は間違い無いが、その前に立って「ふーん、凄いねー。」で大体次の参拝所へ移動である。

 

だがここの彫刻の前に立つと一瞬で別世界に連れて行かれ、時間が止まる。

 

日光の東照宮にある有名な陽明門も、その見事さから終日見ていても飽きない「日暮らしの門」と言われているが、それはその芸術性と言うよりも造形の細かさと色彩の鮮やかさ、題材の意外性等による「見せ物」的な面白さに依る所が大きい。

陽明門は言ってみれば「大道芸」の面白さである。「寄ってらっしゃい、見てらっしゃい! 何でも取り揃えておりますよー!」と言われて来てみると確かに何でも取り揃っており、いちいち面白い。それらを一つ一つ見て廻っているうちに日が暮れてしまうのは確かである。しかしそれは造形の細かさとか色彩の数の多さといった誰でも分かる「物理量」に頼った面白さであり、一通り見終わったらまた初めから見る人は少ないであろう。

この陽明門は「徳川幕府の力を示す」という目的を持っており、建立の意図が違うので比べるのは本質的に無理があるかも知れないが、見せ物と芸術の違いを説明する良い例なので使わせて貰いたい。

 

金華山の社彫刻もいつまで見ていても飽きないある意味「日暮しの門」とも言えるが、その「日暮らし性」は陽明門のそれとは全く異なる。

 

違いがお分かりだろうか?

金華山の社彫刻は、人の視線とハートを吸い込んでいく。見た人はその生命力に溢れた異世界へスゥーっと引き込まれていき、しばし「魂の遠足」を楽しむのである。

 

陽明門の彫刻の数々は、人の目を奪う。見た人はその強烈な色彩や物理量に強制的に圧倒され、「何だこれは?」という興味が先に立つ。金華山の彫刻はハートを吸い込み拡大させるが、陽明門のそれは人の目を奪い頭脳を消耗させていくのである。

 

「芸術」は見る者の視線を吸い込み、ハートを滋養し、人に新たなエネルギーを与える。

「見せ物」は見る物の視線を反射し、好奇心は満足させるがハートに滋養は与えず、脳を疲労させる。

それが違いである。

 

この彫刻は明治後期に本堂・拝殿が建て替えられた時に創作されたもので、誰の作かは神社でも記録が無く分からないという。建立当初の彫刻の姿は無く、今の彫刻は近代の技法を取り入れて作られたものと思われる。

それが故に、この彫刻は歴史的価値があまり無いと見做され、紹介もされないのであろう。しかし、その芸術的価値は諸事情に全く関係なく明らかである。なので、この彫刻は「気づいた者だけが楽しむ」ある意味金華山観光の「裏技」である。

 

あらゆる社彫刻をネットで検索してみたが、この金華山の作品を上回る芸術性のあるものは見られなかった。

芸術的感性のある方は、ここ金華山にて必ず大きな果実が得られる事を保証しておく。

 

また、深い陰影によってこの精緻な造形美を最大限に引き出したカメラマンの腕前も見事である。

 つづく